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 すでに生徒たちは体育館に整列していた。教員たちもみな揃っている。  俺が教員の列の最後尾に並ぶと、生徒たちからじろじろと遠慮のない視線が浴びせられた。  予想も覚悟もしていたので気にもならない。そもそも全校集会で別れの挨拶をしたいと校長に頼んだのは俺自身だ。  集会はいつも通り低いテンションで進み、最後の最後でようやく俺の出番となった。 「今日で退職される養護の鶴見先生からご挨拶をいただきます」  進行の教員が俺の紹介をすると、体育館がざわめいた。   俺はゆっくりとステージに向かった。階段をのぼり、ステージの中央に立つと、一斉に大量の視線に貫かれる。  マイクを握りながら体育館中を見回すと、真っ先に一之宮の姿が目に飛び込んできた。久しぶりに見る姿だ。しかし彼は深く俯き、壇上の俺を見ようとはしない。  わかっていたことなのに少し落胆した。これほどあからさまに避けられているというのはやはり辛いものがある。でも仕方ないと気を取り直し、俺は口を開いた。 「急なことですが、一身上の都合により養護教諭の職を辞めることになりました」  静まり返った体育館に俺の声が響く。  相変わらず一之宮は俯いたままだ。もう俺を視界にいれることさえ嫌なのだろうか。そう思うと胸が痛い。  俺は彼から視線を剥がし、体育館の中を見回した。  生徒たちの顔には戸惑いと少しの嫌悪、無関心、嘲笑やそれらが配合を変えた表情が浮かんでいた。こそこそと顔を顰めて話をする生徒もいる。  でも、泣きそうに歪められた顔はいくつもあった。心配そうに、悲しそうに眉を寄せる生徒は五人や十人ではなかった。  保健委員を何度も引き受けてくれた生徒。  いっしょに頭を捻りながら保健便りを作った生徒。  悩みを吐露して号泣した生徒。  何度も絆創膏を張り、包帯を巻き、熱を測り脈を取り、ホットタオルを作っては彼ら彼女らの身体に当てた。その顔や名前、声やしぐさのひとつひとつが記憶から飛び出してくる。  はっとした。俺はこの学校で何も出来なかったわけではない。少しでも積み上がったものは確かにある。  そう気が付くと指先から力が戻ってくるようだった。  俺が一之宮を傷つけたのは事実だ。だけどきっとそれだけじゃないはずだ。彼の心に残せるものがあるはずだ。 「……少しだけ……。個人的な話をしてもいいでしょうか」  俺の言葉に、生徒や教員たちの顔に戸惑いが浮かんだのが見えたが、俺は静かに続けた。 「私の、家は、母子家庭で貧乏でした。家の中にはお金が全然なかったし、愛情もなかった。そんな寂しく冷たい家で育った私には、心の中に大きな穴がありました。何をしても埋まらないほどの大きな穴です」  なあ一之宮。と心の中で話しかける。  お前の心の中の穴も驚くほど大きいんだろうな。俺が触れることができたと思っているのは、きっとほんの一部だ。 「だけどそんな俺でも、いろんなことを経験して、そんな穴は誰にでもあることを知りました。きっと君たちの中にもあるんだと思います。満たされない穴を抱えて生きていくのは苦しいことです。眠れない夜もあるでしょう。なんで自分だけがこんな目に合うのだろうと、世の中を恨みたくもなる」  そんな孤独の中にひとりでいるお前に、少しでも良いものをやりたかった。  お前の隣に立って、お前の笑顔を、明るい未来へと歩いていく後ろ姿を見たかった。お前が幸せになるなら、自分などそのへんに置いていかれても構わなかった。  そんなことを思っていながら、俺は結局お前を置いていく。  ごめんな、ごめんな、と謝ることしかできない。頼むから幸せになってくれと祈ることしかできない。  本当に勝手だ。でも今この瞬間、空から降ってきた天啓のように、うっすら見えてきたものがあった。高窓から体育館に差し込む透明な光のように、何かが胸に差してくる。   「……でも。あなたの抱える穴は、年月をかけていろんなものに表面を削られて、なだらかになっていく。心の(ひだ)のようなものになる。そこからはいろんなことが感じられるようになる。人が感じる痛みとか、哀しみとか、優しさとか、そういうものが自分の心に染みてくる。そのときにはきっと、あなたは心から人を愛し、愛される人間になれるはずです」  単なる希望だ。俺もいまだに理解できないことだ。口から勝手に出てきた、出まかせに近い言葉だ。それなのに俺は願わずにはいられない。   お願いだから、自分を父親と一緒だなんて言わないで欲しい。  お前の中にある力を信じて欲しい。    思わず泣きそうになり、俺は慌てて頬を引き上げて笑顔を作った。ははっと声を出して笑う。 「…………あ~、ちょっと説教臭くなっちゃたかな。……ええと、とにかく短い間だったけど、本当にありがとう。俺は君たちの役に少しは立てたかな。ちょっとは心が安らぐような場所に保健室がなってたならいいなって思ってます。まあ正直に言えば、いろいろあったので思うことはあるんだけど、でもこうなったのは俺の力不足だと思います。ごめんね。それでもこの学校で保健の先生になれて、俺は幸せでした。ありがとう」  最後はしどろもどろで締まらない挨拶になってしまったが、ぐすっぐすっと、あちこちから鼻をすする音が混じり、いつのまにか多くの生徒は懸命にステージの上の俺を見つめていた。  それとは反対に、気まずそうな顔で俯いている生徒もいた。きっと俺に嫌がらせをしてきた輩だろう。でも不思議と彼らに対する怒りも憎しみも感じなかった。心が静かに凪いでいた。  一之宮は、深く深く俯いていた。他の生徒の姿に紛れて、いまは彼の真っ黒な髪の毛しかみえない。  すこしでもいいから、最後に彼の顔が見たかったなと思った。これで一之宮の姿を見るのは最後なのだ。  でも、未練が残らないからかえって良かったのかもしれない。    パチパチと体育館には拍手が響く中で、俺は深々と頭を下げた。  もうすべてのことをやりおおせた。  そんなふうに思いながら頭を上げたとき、ふいに一人の男子生徒が目に入った。彼は生徒の並ぶ列から離れ、人目を憚るように体育館の外へと出て行く。  あれは――――横山だ。    そう気がついた次の瞬間、俺は気が付くとステージの上から飛び降りていた。身体が勝手に走り出す。  俺の突飛な行動で体育館がざわつき始めたが、もうそんなことに構ってはいられなかった。横山を追わなくてはいけない。俺の頭の中にはそのことしかなかった。  生徒と教員の列を横目に体育館を横切り、体育館の外へ出る。  あたりを見回すと、渡り廊下を校舎の方へ走っていく彼の後姿が見えた。 「横山!」  俺が叫ぶと、横山はびくりと身体を揺らし立ち止まった。ゆっくりと彼が振り返る。その顔を見て驚いた。横山は真っ赤な顔を歪めて涙を流していた。 「ごめんなさい先生」  ぼろぼろと泣きながら横山は頭を下げた。 「SNSに書き込みをしたのは俺です。先生のことが好きで、でも振り向いてもらえなくて憎かった。でも、まさかこんなことになるなんて」  やはり犯人は横山だったのだ。頭を下げ続けながら泣きじゃくる横山のことを見ていたら、なんともいえない感情がこみ上げてきた。  彼だって苦しんでいたのだ。不眠だったことも、両親からのプレッシャーに苦しんでいたこともよく知っている。ゲイという性的指向のことでもずいぶん悩んでいたのだろう。俺がもっと上手な対応が出来れば、もしかしたら結果は違っていたのかもしれない。そう思うとやり切れない。 「横山……」  俺は横山の脇にしゃがみ、彼の肩に手を伸ばした。  しかしその手は不意に後ろからぐいっと引っ張られた。驚いて振り返ると、憤怒の表情の一之宮が立っている。  一之宮は俺の手を離すと、今度は横山の胸倉を掴んで彼の身体を無理やり立たせた。  「お前が書き込みをしたのか!」  一之宮の怒号が響く。左手で横山の胸倉を掴みながら、右手を握る。 「一之宮! 駄目だ!」  俺は叫んだが間に合わなかった。一之宮が握った拳を振りぬき、殴られた横山は勢いよく吹き飛んだ。 「お前のせいで先生は辞めるんだぞ!」  地面に倒れこんだ横山の胸倉を掴みながら、一之宮はなおも拳を握る。 「辞めろ、一之宮!」  俺は一之宮の振り上げた腕に縋りついた。 「これ以上はだめだ! お願いだからやめてくれ!」  必死の懇願に、一之宮がこちらを振り向いた。その表情の険しさに驚く。目が血走って夜叉のような顔だった。 「どうして止めるんですか! こんな卑怯なやつ許せない! コイツのせいで先生は……!」 「一之宮!」  俺は激昂する一之宮の腕を引っ張り、彼の顔を両手でバチンと叩いた。そのまま自分のほうに引き付けて、瞳を覗き込む。 「お前が憎まなくていいんだ。だって俺が憎んでない」  お願いだ、正気に戻ってくれ。もう手をあげないでくれ。怒りにのみこまれないでくれ。  心の中の叫びが聞こえたのか、はっと一之宮の瞳が揺れた。ゆっくりと燃えていた怒りの温度が下がっていく。   「どうしてですか……。先生はコイツのこと憎くないんですか」  泣きそうな声で呟いた一之宮に、俺は「憎くない」と首を振った。 「嘘だ……。そんなわけがない」  一之宮が戸惑うように顔を上げた。  さっき言った『憎くない』は半分本当で半分は嘘だ。  本当は横山のしたことに怒りがあるし恨む気持ちもある。  でも今そう言ってしまったら、怒りに目が眩み横山を殴った一之宮を否定してしまう気がした。 「だって人間は間違うことがあるだろ。つい拳をあげてしまうことだってある。俺だってそうだよ。昔たくさん間違ったことをした」 「昔? 先生がですか?」   「うん、俺、昔はやんちゃしてたからさ。いろんな人に迷惑かけて間違ったこともしたけど、今俺がまともに生きてるのはなんでだと思う? たくさんの人が叱ってくれて、許してくれたからだよ。『俺も同じことをしたことがあるぞ』って、昔の話をしてくれた人もいた。みんな間違うことはあるって教えてもらったんだ。そんなかっこいい大人を見てたから、俺だってこれから正しく生きれるようになるかもしれないって思った。きっとそんな人になりたいって」  俺は子供のように不安げな一之宮の瞳に微笑みかける。 「やせ我慢でもいい。俺はそういうかっこいい大人として生きていきたいんだよ。お前ならわかってくれるだろ?」  一之宮の瞳が揺れ、顔が歪む。 「俺は……俺はわかんないです。そんなふうには思えない。大人なんてみんな勝手だ。勝手な自分の都合で……みんな……俺を置いていく」  俯いた一之宮の肩が震えていた。 「ごめんな」  その言葉しか出ない。 「でもな、お前もすぐに大人になるよ」  俺は震える一之宮の背中を撫で、そして横山へと視線を移した。  横山は片頬を腫らし、呆然としている地面に蹲っている。俺は横山の血の気の引いた顔を見据えた。 「お前もだよ、横山。お前ももうじき子供じゃなくなる。今みたいに守り庇われる時間なんてすぐに終わるんだよ。そしたら自分の足で立って、自分のしたことは自分で落とし前つけなくちゃいけない。誰もお前を助けてくれない」 「鶴見先生の言う通りですよ、少年」  突然第三者の声が割り込んだ。続けてふぉっふぉっふぉっと変な笑い声も聞こえる。驚いて振り返ると、背後にはいつのまにか校長が立っていた。  校長は驚きで固まる俺と一之宮を見て微笑み、それからすうっと笑みを消して横山をじっと見下ろす。 「三年一組横山大紀くんですね」  校長の鋭い視線に、横山が怯えてびくりと震えた。 「君のしたことは犯罪なんですよねえ。ネットで叩くくらいばれないだろう、未成年だから許されるだろう、そんなふうに思っていたのかもしれませんが、そんな理屈は通じません。鶴見先生が訴えて、しかるべき筋に調査を依頼したらあなたは裁判で負けます。お父様もお母さまも、頼りのお金も何も助けることは出来ない。大学の推薦も取り消しです。君はそれほどのことをしたんですよ」 「あ……俺、俺は……」  ガタガタと横山は震え、地面に伏せて嗚咽を漏らし始めた。  かける言葉がなかった。彼はこれから、自分が人の人生を狂わせたという大きな罪を背負わなければならない。ずっと消えない罪悪感に苦しむのだろう。彼の行く末が気にかかるが、きっとこの校長ならうまく導いてくれるような気がする。  俺はもう何も言わず、校長に向けて深く一礼をした。校長もわずかに微笑んで答える。  もう一度礼をして、いまだに黙り込んだままの一之宮の腕を掴んで歩き出した。  校舎の中はしんと静まり返っていて、廊下を歩く足音だけが響いている。一之宮はされるがままに付いてきていたが、ようやく口を開いた。 「先生、どこに行くんですか」 「そんなの決まってんだろ、保健室だよ」 「え」  驚いたように一之宮が足を止める。思わずため息がでた。 「ほら、お前の右手。血でてるぞ」  一之宮が自分の右手に視線を落とす。彼の手の甲は、皮が剥けて血が出ていた。横山のことを殴ったときに出来た傷だ。 「ちっとも気が付きませんでした」 「だろうな」  一之宮はいつもそうだ。相手のためになれば、自分がどれだけぼろぼろになっても構わないと思っている。そんな彼が悲しく、愛おしく、だからこそ自分の全てをなげうってでも守りたかった。  到着した保健室の鍵を開けて、俺たちは中に入った。保管棚から消毒薬やガーゼや絆創膏などを取り出す。一之宮は処置をする俺の手元を黙って見つめていた。 「俺は……いつも人を傷つける。先生のことだって、あいつのことだって。頭に血が上ると訳が分かんなくなる。親父と一緒だ」  その言葉に俺ははっとした。  一之宮は泣きだしそうな顔で唇を噛んでいる。痛々しい姿に心が痛んだ。  俺は彼の手をそっと握り、呟いた。 「一緒じゃないよ」  俺は視線を上げ、彼の顔を覗き込む。 「俺の目を見て」  一之宮の視線がゆっくりと上がった。うろうろとさ迷った彼の瞳が、ようやく俺の目に据えられる。 「お前の目はきれいだ」 「え……」  一之宮が驚いたように目を瞠った。 「まっすぐで、透明で、ちっとも翳ってない。そして誰よりも優しい」 「そんなこと……初めて言われた」 「ふふ、そうかな。俺は初めから思ってたよ。なんて優しいやつなんだろうって。優しすぎて心配したくらいだ」  一之宮がぐっと息を詰めた。手のひらで胸元のシャツを握り、苦しそうに声を絞り出す。 「先生。俺、何度考えてもわかんないんです。これって本当に好きっていう感情じゃないんですか?」 「一之宮……」 「俺は先生のことが好きだ。どこにも行かないでほしい。そばにいたい。先生への気持ちがちゃんとここにあるのに、それだけじゃ足りないんですか?」  苦しそうに胸元を抑える一之宮を見ていると、自分の喉からもとてつもなく大きな感情の塊が上ってきた。俺は必死にそれを呑みくだし、震える口を開いた。 「ごめんな、俺にもわからないんだよ」  俺の声は泣き出す寸前の子供のようだった。でも取り繕えなかった。取り繕う必要ももうないだろうと思うと、自然に言葉が口から零れていく。 「俺もお前のこと好きだ。誰よりもお前のこと大事に思ってる。でも俺の好きには、いろんなものが絡みついて離れない。ぐちゃぐちゃで、綺麗じゃないんだ。俺はこれが愛だって胸を張れない。そんな不確かなもんで、お前を引っ張っていけない」  だって手を繋いで二人で向かう先は天国じゃない。生徒と教員で、男同士。誰にも理解してもらえないし祝福もしてもらえないだろう。そんな地獄みたいなところへ、一番大事な存在を引き摺り込めない。 「ずっと一緒にいられなくてごめん。途中で手を離してごめん。……でも立ち止まらずに進んで。必ず明るいところに出るから」  一之宮の肩がかくんと落ちた。  顔が歪み、隠すように左手で覆う。身体が細かく震えはじめ、小さな嗚咽が漏れる。  俯いて泣く一之宮に、触れることが出来なかった。  いつまでもいつまでも、俺はリノリウムの床を眺めていた。  窓からは溢れるほどに光が差し込んでいた。遠くで鳥の鳴き声が響き、ざあっと風が吹き抜ける音がする。光の帯が揺れ、床の上できらきらと踊る光の粒はまるで海のようだった。雲に遮られた光が翳り、消え、そしてまた生まれる。  やがて一之宮が静かに立ち上がった。何も言わず、彼は保健室を出て行った。ぱたん、と扉が閉まる。  きゅ、きゅ、きゅと床を踏みしめる音が遠のいていく。  ――――ああ。  俺は両手で顔を覆い俯いた。  今ごろわかるなんて、俺はどうしてこんなに馬鹿なんだろう。  俺の中にあった感情。一之宮に対して抱いていたのは、もしかしたら本当に愛だったのかもしれない。
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