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 ――潮の匂いが消えている。  俺は抱えていた段ボール箱を下ろし、額に浮いた汗を手の甲で拭った。  開け放たれた窓から階下を見下ろすと、猫の額ほどの園庭の向こうに、海へ向かって一直線に下っていく白い石畳の階段と、緩やかな坂にへばりつくように並んでいる鈍色の瓦屋根が見渡せる。いつのまにかだいぶ傾いた日に照らされ、隙間から見える海は瞬くように光っていた。  夏も終わりの八月後半のこの時期は、昼間と夜できっぱりと風向きが変わる。昼は海から吹く海風。夜は陸から吹く陸風。 『ちょうど昼と夜の境目の今の時間に、海の匂いがふっと消えるんだよ』  そう教えてくれたのはこの児童養護施設の園長だった。なんでも陸地と海の温度差によって風向きが変わるらしい。  見上げた夕方の空は高く、空気も季節の境目の匂いがする。夏の残り香に秋の乾いた空気を混ぜた匂いだ。  大きく息を吸い込んでいると、階段の下の方から「せんせい~せんせい~」と子どもの声が聞こえてきた。廊下をのぞくと、階段をとたとた上ってくる小さな頭が見える。 「ん? どうした湊?」  名前を呼ぶと、湊は俺のところまで駆け寄り、困ったように眉を下げた。 「ちぐさせんせい! たいへんなの。あのね、たかやくんとあやくんがけんかしてるの」 「えっ、まじか」 「うん、まじまじ。はやくきて」  俺は溜息をつき、彼らが喧嘩をしているという部屋に湊と向かった。   廊下を進んで行くと、次第に子供の泣き声とぎゃんぎゃん騒ぎ立てる口喧嘩が聞こえてくる。  『ゲーム』がどうやら、『自由時間』がなんたら。きっとゲームの順番でもめてるに違いない。  俺は『カモメ号』と書かれた部屋のドアノブを握り、深く息を吸い込む。扉を開けた瞬間にカッと口を開いた。 「こらあっ! おまえら何やってんだ!!」  俺が発した大音量の渇に、部屋の中にいた数人の子供が凍り付いた。すぐに火が付いたように激しく泣き始める。  あれ? 結構マイルドに怒ったつもりだったんだけど……。  俺は前より阿鼻叫喚になってしまった部屋の中を呆然と眺め、隣で湊が大人顔負けのため息をついた。 ****  高校の養護教諭の職を辞めて、一年半以上の時が経っていた。  学校に辞表を提出してから、いくつものバイトを掛け持ちしつつようやく見つけた職場が、この『こどもの家』という児童養護施設だ。  たっぷりと白髭を蓄えた年齢不詳の園長が立ち上げた施設で、海の沿いの斜面に立つ元イギリス大使の別荘を改装した建物には、十五人のほどの子供が暮らしている。俺がここの職員として就職したのは半年前のことだった。   「千草先生、また子供たち泣かせたの?」  地獄のような状況をなんとか終結させ、事務室に戻ると園長が声をかけてきた。俺は苦笑いで答える。 「はい、また迫力が出過ぎたみたいで……」 「あらあ、いいんじゃないの? ここは優しい先生ばっかりだから、迫力ある怖い人もいないと駄目なのよ」  そう答えてくれたのは園長の奥さんだ。そうそう、と園長と周りの職員ものんびりと頷く。 「千草先生はここに入って半年だもの、慣れないのはしょうがないしょうがない。じゃ僕は約束があるからお先に。お疲れ様」  ぽんぽんと俺の肩を叩いて園長は事務室を出て行った。なんでも子供たちと裏庭で相撲を取る約束をしているらしい。  「お疲れ様でした」と園長の背中に声を掛けながら、俺は本当にありがたいものだなと感慨にふけった。  学校を辞めてからここへ就職できるまでの一年間を、実はあまり覚えていない。なにも考えないようにがむしゃらに就職活動をしていたことだけはなんとなく覚えてはいるのだが、記憶があまり鮮明ではないのだ。  自分と世界の間に、一枚も二枚も膜を張ったような感覚だった。ふと夜中に目が覚めたとき、美しい夕日を見たとき、ひとり帰ってきた部屋の電気をつけるとき、涙が止まらなくなる。  喪失感だけが募っていくような日々だった。  思い詰めて何度も一之宮の住むアパートに行きそうになったが、なんとかすれすれのところで思いとどまってきた。  彼の顔を一目見てしまったらきっと俺は歯止めが利かなくなる。新しい道を踏み出す一之宮の邪魔はしたくない。俺は一之宮の手を自ら離したのだ。彼のことは忘れるべきだ。   そんなふうに思いながらも、一之宮の手の温もりを、抱きしめられた腕の感触を、彼の匂いを反芻している自分がいた。  何度も何度も繰り返し再生した一之宮の記憶は、少しずつ擦り切れておぼろげになっていく。だが胸の中の痛みは一向に薄まる気配がない。彼への目減りしない想いを抱えながら、気が付くと季節は一回りしていた。  ここの園長に一回目の面接で『うちにおいで』と言われたのはそんなときだった。おもわず号泣してしまうほどに安堵した。それが半年前。その時を境に、白黒だった俺の世界に色味と匂いと感触がすこしずつ戻りつつある。  何はともあれ、と俺は息を吐き出した。  ここに拾ってもらったのだから、心を尽くして働くのみだ。……例え子供たちに陰で『鬼のちー先生』と呼ばれていようとも。
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