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 日誌を書き終えると、時計はすでに就業時間の六時を過ぎていた。夜勤の職員に声を掛けて事務室を後にする。  外に出ると一気に身体が冷えた。くしょん、と一つくしゃみが飛び出る。  昼間は暑いが、夕方になるとかなり冷え込むようになった。半袖から出た腕を擦りながら、海に向かって下っていく石畳の階段を降りる。黄昏に沈んでいく海を眺めながら海岸沿いの遊歩道を歩いていると、ふと目の端に映り込んだものがあった。  松林に向かって半円形に開かれた休憩スペースだ。潮風に痛んだ木のベンチが二つ並び、その後ろで自動販売機が青白く光っている。  あれ、こんなところに自販機あったっけ……。  俺はふらりとその自販機に近づき、そこに表示された飲み物の値段を見て驚いた。  ペットボトルが百八十円。缶ジュースは百四十円。 「いつのまにか高くなったもんだな」  唸りながら自販機を眺めていたが、ふいに視線が止まった。  コーンポタージュ百四十円。  思い起こすのは、前に勤めていた高校にあった激安自販機だ。あそこにもコーンポタージュがあった。  あの頃は大好きで毎日飲んでいたが、学校を辞めて以降は飲むことはなかった。なぜなら、思い出してしまうからだ。自ら手を離した大事な人を。  ――元気にしてるかな。  一之宮のことを思い出すと、未だに胸がするどく痛む。  たまに土屋とは会うが、一之宮のことは話題に上らない。俺も土屋もその話は避けているのだ。でも一度だけ、高校を無事卒業したことだけは聞いた。  嬉しかった。大事な人が同じ空の下で元気に暮らしていると思うと力が湧いてくる。例え二度と会えなくても、大事な存在であることには変わらないのだ。 「……たまには贅沢してもいいよな」  俺はひとり呟き、鞄から財布を取り出した。  百円玉と十円玉を自販機に入れ、コーンポタージュのボタンを押す。落ちてきた缶を握ると、じんわりとした温かさがてのひらから伝わってくる。冷えていた体も心も温まるようだった。  よし帰ろうと財布を鞄にしまおうとしたところで手が滑った。財布が地面に落ち、ちゃりんちゃりん、と音を立てながら小銭が辺り一面に散らばる。 「あー……」  思わずため息が出た。  もうあたりはかなり薄暗くなっている。早く拾わないと見えなくなってしまいそうだ。コーンポタージュの缶を鞄の中に押し込み、俺は急いで地面に這いつくばった。  と、そのときだった。   「これ、どうぞ」  柔らかな声とともに、俺の前に大きな手のひらが差し出された。その上には五円玉がある。  目を疑った。  真っ黒な髪の毛。白いTシャツ越しからでもわかるほどに分厚い身体に端正な顔。日に焼けた肌のギリシャ彫刻。  うす紫色に染まっていく空を背景に立っていたのは、一之宮だった。 「嘘だろ……?」  彼は膝をついて俺がばらまいた小銭をすべて集めると、呆然と固まる俺の手のひらに握らせた。 「ちゃんと全部ありますか?」  確認しろと言うけれど、今俺はそれどころじゃない。 「どうしてここにいるんだ?」 「土屋さんに教えてもらいました。先生がこの近くの施設に勤めてるって。卒業したら会いに行くつもりだったんですけど、土屋さんに『まだ早い』って止められてて」  ……土屋?  俺は悪友の顔を思い浮かべる。この前職場にふらりと遊びにきたときは、そんなこと微塵も言っていなかったくせに、あの野郎。  俺が心の中で悪態をついたのがわかったのか、一之宮がふわりと笑った。それは俺が未だかつて見たことのない種類の笑顔だった。 「土屋さんには、本当は仕事を一年頑張ってから会いに行けって言われてたんです。でも待てなかった。会いたかったです、先生」  信じられない。一之宮が会いに来てくれたことも、目の前で笑っていることも。これは夢だろうか。俺はただぼんやりと立ち尽くすことしかできない。 「ん? 先生大丈夫ですか?」 「……ああ、うん」 「大丈夫じゃなさそうなんですけど」 「うん」 「全然だめな感じですねえ」 「うん」  俺は馬鹿みたいに頷き続けた。言いたいことも聞きたいこともたくさんあるはずなのに、驚きすぎて何も言葉が出てこなかった。  唖然と黙り込む俺を前に、突然一之宮がぴんと背筋を伸ばした。 「俺、毎日六時に起きてます。パンとゆで卵二個とバナナと牛乳の朝食をとってから仕事に行きます」 「…………ん?」  いきなり始まった言葉に、俺は目を瞬いた。 「仕事は足場の組み立てをする会社に入りました。親方は厳しい人ですけど、ときどき昼飯奢ってくれます。先輩たちにしごかれながらなんとか一日終えて、そのままスーパーに行きます」 「す、スーパー?」  一体何の話だろう。 「はい。カップラーメンとおにぎりで済ませたいところをぐっと我慢して、総菜買って帰ります。野菜を適当にいれて味噌汁作って、朝炊いたごはんと一緒に食べてます。後は歯を磨いて風呂に入って、十時には寝ます」 「うん……? それは良かったな?」  きょとんとする俺に、一之宮は真面目に頷き返した。 「俺、毎日きちんと生きてます。つまらないように見えることの繰り返しが、生きるってことだから」 『つまらないように見えることの繰り返しが、生きること』  その言葉にはっとした。とても言い覚えがある言葉だった。養護教諭をしていたころ、俺がよく生徒に言っていた言葉だった。 「もう無理だって思うこともありましたけど、先生の言葉を何度も何度も思い出して頑張りました。これならもう、あなたに好きだって言う権利はありますよね?」  一之宮に熱のこもった瞳で見つめられ、全身があぶられたように熱くなってくる。俺はその場から動けず、ただ首を振った。   「だめだよ、俺なんかじゃ……」 「どうしてですか」 「だって、俺は男だ。六歳も年上だし、お前は元教え子だ。俺なんかじゃお前は幸せになれないよ。お前には可愛い嫁さん貰ってちゃんとした家庭を持って、幸せになってほしいから……」 「俺の幸せを決めつけないでください。自分の未来は自分で選びます。だって俺の人生だから」  俺の目を見ながら、一之宮がはっきり断言した。 「俺だってあれから何度も自問自答しました。先生への感情は本当に恋愛じゃないんだろうかって。この感情は勘違いなんだろうかって。でもそんな質問どうだっていい。だってあなたへの気持ちはちっとも変わらず、ずっとここにあるんです。俺はそれを信じる」  一之宮は自分の胸を抑え、目を細めた。 「先生が好きです。あなたのそばにいたい。あなたのそばで生きさせて欲しいんです。……それとも、先生は他に好きな人が――」 「そんな人いない!」  気が付くとそう叫んでいた。  いつしか目からは涙が溢れだしていた。俺は鼻水を啜りながらも必死に口を開く。 「俺も、ずっとおまえだけだ……」  本当は怖かった。  彼の手を取っていいのだろうか。彼を受け入れていいのだろうか。俺は間違っているのではないだろうか。不安も迷いも消えない。  だけど彼の言うように、俺も自分自身を信じたい。信じて大切なものを掴みたい。 「お前のそばにいさせてくれ」  俺は一之宮に向かって手を伸ばした。一之宮が俺の腕を掴み抱き寄せる。 「もう絶対離れませんからね。覚悟してください」  分厚い彼の胸から直接声が聞こえてくる。その声の響き、変わらない匂いと体温。  ――もう離さないのはこっちのほうだ。  俺はしゃくりをあげながら目の前の愛しい男に力の限りしがみついた。一之宮はいつまでもいつまでも、俺を抱きしめ続けた。
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