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 週の半ばだというのに繁華街はずいぶん賑わっていた。  ぶらぶらと駅前から続くアーケード街を歩きながら、スマホを見る。午後十一時。先週ゲイバーの前で一之宮と遭遇したときと同じ時間だ。  あれからもう一度彼のアパートの前まで戻ってみたが、部屋に電気はついてなかった。仕方がないので一度家に戻り着替えをしてから電車に乗り、駅前のコーヒーショップで時間をつぶし、頃合いの時間を見計らってこうして街に出てきた。もちろん、バイト中の一之宮を捕まえるためだ。  しばらくこのあたりをうろうろしたが、彼らしき姿は見つけられなかった。同じような場所にいるだろうと思いこんでいたが、予想は外れたかもしれない。よく考えてみれば、俺は一之宮がいくつのバイトを掛け持ちしているかさえも知らないのだ。  もしかして無駄足だっただろうか。  道の端に寄り、スマホを取り出し時計を確認すると、探し始めてからすでに一時間が経っていた。  肩をトントンと叩かれたのはそのときだ。驚いて振り向くと、四十くらいのサラリーマン風の男が立っていた。見知らぬ顔だ。 「あの、なんですか?」  俺が問いかけると、中年の男はにこにこと笑った。 「君、もぐらっていうバーに来てたでしょ?」 「は?」  もぐらというのは、俺が通っている会員制のゲイバーのことだ。どうして知っているのだろう。一気に警戒を強めた俺に向かって、男は気安げな笑顔を向ける。 「安心して。俺ももぐらに通っているだからさ。それよりもこんなところでうろうろしてどうしたの? 誰か探してる?」  男はそう言いながら、距離を縮めて腰に手を回してきた。そのなれなれしい態度と感触に、全身にぞっと鳥肌が立つ。すかさず男の手を外しながら、俺は後ろに下がった。 「大丈夫です、お気遣いなく」 「なんだよ、そっけないなあ。誰とも待ち合わせしてないなら、俺とこれからどう?」  男は首を傾げて俺の背後をちらっと見る。  そこでようやく気が付いた。俺が立っていたのは、ラブホテルの目の前だったのだ。こんなところでうろうろしていたから、待ち合わせ相手にすっぽかされたか相手を探していると勘違いされたのだろう。だからこの男は露骨に誘いをかけてきたのだ。 「あ~、俺今忙しいんで! 他当たってくださ~い!」  そっけなく言って立ち去ろうとしたが、男に腕を取られた。 「あのさ、ずっと君のこといいなって思ってたんだよね」  酒臭い息を吐き出し、男が顔を近づけてくる。 「いつも酒も飲まないし、隣にでっかい男がいるから声かけられなかったんだけど、あの男って彼氏じゃないんでしょ? だったらいいじゃない」 「はあ⁉」  男は勝手なことをいいながらも、俺をホテルのエントランスへと引きずっていく。抵抗しようにも体格も力が違う。腕を剥がすことが出来ない。 「ちょっと、本当に嫌だって……!」  自動ドアが開き、男が後ろから背中を押す。  ――くそっ、手荒な真似はしたくねえのに……。  と拳を握りかけたとき、背中を押していた男の手がふっと離れた。 「え」  振り返って俺は驚きに息を呑んだ。  目に入ったのは、エントランスの石畳の上にひれ伏す中年の男と、その傍らに立って腕を捻り上げる一之宮の姿だったのだ。 「い、い、い、一之宮っ⁉」  あまりの驚きで声がひっくり返ってしまった。一之宮は顔をあげ俺の方をちらりと見たが、また中年の男に視線を落とす。さらに腕に力を込めたようで、男が「痛い痛い痛い」と情けない涙声を上げた。  一之宮は男の腕を乱暴に離すと、胸倉を掴んで引き上げた。鼻先が触れそうなほどに顔を近づけ、低い声ですごむ。 「おいお前、もうこの人には近づくな。この人はお前が触れていいような人じゃないんだ。もし今度近づいて見ろ、お前の小指を切り落としてやる」 「ひっ……ひいぃいいいぃっ」  中年の男は情けない悲鳴を上げた。地面を這いつくばりながらもせわしなく逃げていく。  こうしてラブホテルのエントランスには、男ふたりと静寂だけが残された。 「一之宮ってすごいケンカ強いじゃん……」  俺がおもわず呟くと、男の背中を見送っていた一之宮が俺の方を振り返った。そして吊り上げていた眉を下げる。 「ああ、あれですか? バイト先の先輩に教えてもらった護身術ですよ」 「バイトってこのバイトの?」 「そうですよ。役に立つでしょう、こういう経験も」  そう言われたようやく思い出した。以前夜の街で一之宮に遭遇した時、こういうバイトは危ない、お金は稼げるかもしれないけど、ろくな結果にはならないと自分が説教したのだった。 「あはは、確かに」  俺が噴き出すと、一之宮はようやく安心したように小さくため息をついた。 「笑ってないで行きますよ」  腹を抱えて本格に笑い出した俺の手を取り、一之宮は大通りの方へと歩き出した。    数時間前にはあれほど俺に怒っていたというのに、助けてくれた。優しい子なのだと思う。   「どうしてこんなところまで来たんですか」  一之宮の言葉に、俺は本来の目的をやっと思い出した。立ち止まり一之宮と向かい合う。 「さっきはごめん。言い過ぎた」  がばっと頭を下げた。しばらく経ってから顔を上げると、一之宮は心底驚いたように目を瞬いている。 「だけどそのうえで、どうしても一之宮に話したいことがあってここまで来た」 「……はい」   「一之宮、父親を切り捨てるんだ」  俺の言葉に、一之宮は息を呑んだ。 「何も本当に親を捨てろって言ってるわけじゃない。父親のために自分を犠牲にすることは辞めて欲しいんだよ。お前の愛情や努力を浪費する権利なんて、誰にもないんだ。例え本当の親だとしてもそんなことは許されない。許しちゃいけないんだよ」  一之宮は戸惑ったように口を開きかけたが、俺はさらに言葉を被せた。 「世の中には親になる資格がないような奴もいるんだ。そういう奴は、どんなことがあっても変わらない。何を言っても心に響かない。俺の母親もそうだったから、よくわかるんだ」 「先生の……お母さんですか?」  驚いたように目を見開いた一之宮に、俺は頷いて見せる。 「そう。俺の母親は未婚の母ってやつでさ。俺を生んでからもまともに家にいやしない。ふらふら遊び歩いてばっかで、俺はばあちゃんに育てられたんだよ。でも俺が八歳の頃にそのばあちゃんも死んじゃって」  慎ましやかでも幸せな生活は祖母の死で一変した。唯一の肉親である母親に引き取られ、狭いアパートの一室で二人の生活が始まった。 「その後の生活は大体想像つくだろ? 俺の母親も飲んだくれで、異性関係にはだらしなくて、しょっちゅう男連れ込んでさ。だから俺はものごころ付いたときから自分のことは自分でやらざる得なかった。でも子供のやることだからな。家の中はゴミだらけで、洗濯機も壊れているから服も満足に洗えない。学校では臭い臭いっていじめられて、学校にもだんだん行かないようになって」  周りに見方はいなかった。  全部が敵のように感じていた。  夜も昼も孤独で、中学校に上がったころには、俺は夜の街にふらふらと出て行くようになった。そんな子供はいくらでもいた。でも俺が幸運だったのは、同じような境遇の土屋と出会えたことだった。  土屋は俺と似たような環境で育った二学年上の先輩だったが、あるとき俺を一軒の古い民家に連れて行った。そこは家庭に恵まれない子供のための居場所だったのだ。 「すっごいボロボロの家なんだけどさ、漫画とか本がたくさん置いてあって、茶の間にはいくつもちゃぶ台があって、漫画読んだり勉強したり、みんなでご飯食べるんだよ。それでそこにいるおっちゃんがいい人でさ。俺、初めて話をちゃんと聞いてくれる大人がいるんだってびっくりしたよ。おっちゃんはいつでも来ていいよって言ってくれて、俺は毎日通った。勉強も教えてもらって、飯食わしてもらって、進路相談まで乗ってもらった。だから今の俺がいるのは、その人のおかげってわけ」  当時の思いが溢れてきて、捲し立てるような話し方になってしまった。落ち着けと自分に言い聞かせて、大きく息を吸う。  一之宮の顔を見上げると、彼は虚を突かれたような表情をしていた。 「えっと、何が言いたいかっていうとさ……。俺のこと頼って欲しいんだよ。今だけでもいいから、俺のこと利用して。一人で悩みとか不安とか抱え込んで、生き急がないでくれよ」  一之宮の瞳が大きく揺れた。  きっと今、彼の中ではいろんな感情が闘っているのだろう。俺には気持ちが手に取るようにわかるような気がした。  本当にこの人を信用していいのか? 信じたいけど、信じて裏切られたら?   そう考えると怖いのだろう。だったら誰も信じず頼らない方がよっぽど楽なのだ。俺たちのように親に裏切られ続けた人間が、他人を信じるのは命懸けに近い。  俺は堪らなくなり、一之宮の腕に手のひらを置いた。 「俺の母親もお前の父親も、こっちがどんだけ想ってても同じものを返してはくれないんだ。捉われてたら、たくさんの時間を無駄にしちまう。だから切り捨てろ。お前はこれから自分のことだけを考えて、幸せにならなくちゃいけないんだよ」  もしかしたら変わってくれるかもしれない。こっちを向いてくれるかもしれない。そんな希望を持ち続けて、疲れて擦り切れて、ボロ雑巾になってしまうのはいつも子供のほうだ。  だからそんな希望捨てて欲しかった。一之宮には擦り切れて欲しくなかった。 「俺は……」  一之宮の瞳が怯えるように収縮する。唇が震える。だが彼は唇を噛んで首を振った。 「出来ない、です」  ああ、と俺は彼の真っ黒な目を見つめた。なんて優しい目なのだろう。優しいのだ、優しすぎるから、あんなどうしようもない父親も捨てることが出来ない。  どうしてなんだろう。どうして優しいこの子が犠牲にならなくてはならない? 「俺たちみたいなのがクソ親から一番に教わることって何だと思う? それはな、自分が親のために何かをしなくちゃいけないって義務感だよ。そう思うよな。一番近くで親の苦しみを見ているのはつらい。何かしてやりたいって思っちまう。でも、それは間違いなんだ。親の苦しみはお前の苦しみじゃない。親と自分との間に、境界線を引かなくちゃいけないんだ」 「俺は……」  一之宮は顔を歪めて視線を下げた。地面をじっと見つめる一之宮に近づき、その大きな背中に手のひらを当てた。 「ゆっくりでいい」  ぽん、ぽんとリズムをつけて叩く。 「ゆっくりでいいから、自分のことをきちんと大事に出来るようになろう」  一之宮の背中がおおきく膨らみ、長く細い吐息とともにゆっくりとしぼんだ。少し小さくなった背中がわずかに動く。  「はい」、と小さな声が聞こえた。 「――ん、よし。学校は辞めてはだめだ」 「……はい」 「夜のバイトもだめだぞ。良い子は夜寝るもんだ」 「はい」 「で、朝はちゃんと起きて学校に行く」 「はい」 「卒業まで通うこと」 「はい」  なんか可愛いな。  俯いたまま素直に頷く一之宮の横顔を見ていたら、そんな気持ちが湧いてきた。 「そんでいっぱい働いて金稼いで、全部自分のために使うんだ。それが正しい大人の姿ってもんだよ」  笑いながら言うと、一之宮はゆっくりと顔を上げた。 「……全部自分のために?」 「そう。うまいもの食ってうまい酒飲んで、ほしいもの買って、旅行にも行く。お前もいつかそういうかっこいい大人になるんだぞ。俺みたいにな」  目を合わせて言い切った。  一之宮は眩しそうに俺を見つめている。無防備なこどものような顔だ。そのつるりとした瞳に、ネオンサインが反射して光るのが見えた。星みたいな無数の光が息づき、小さく瞬いている。  この小さな光が、これから先で彼が見つける希望ならいいのに。  俺はそんなことを思いながら、一之宮の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻きまわした。  
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