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「えっ、新しいバイトが決まった?」  放課後保健室にやってきた一之宮の報告に、俺は驚いて振り返った。いつもの定位置の椅子に座った一之宮が少し照れくさそうに「はい」と頷く。  なんでも、ケースワーカーの人に『将来の自立のために貯蓄をしては?』と以前から提案されていたらしい。  学費に使用するためや、進学など将来の自立に向けた費用を貯蓄することは収入認定の除外にあたるそうで、勝手に引き出せないかわりに保護費を減額しない取扱いになるとのことなのだ。  それは一之宮にとっては好都合だろう。無理をして働いてすべて父親の酒代に消えていくくらいなら、たとえ少額でも自分の将来のために貯金をした方がいいに決まっている。   「あ、もちろん変なバイトじゃないですよ? 普通にコンビニです」 「コンビニかあ。俺もバイトしたことあるけど、大変なんだよな」  しみじみ言うと、一之宮も思い出すようにちょっと眉を寄せた。 「覚えることたくさんで、パンクしそうです」  涼しい顔で言うので笑ってしまった。 「今まで将来のことなんて考えもしなかったんですけど、ちょっとずつでも考えた方がいいなあって。正直言うとまだ想像もできないけど……」 「一之宮……」  言葉がすぐに出なかった。この前まで学校を辞めようとしていた彼の口から、『将来』の言葉が出てきた。それだけで涙が出るほどに嬉しかった。  人間はそう簡単に変われないことは知っている。あの父親のもとで育ったことによって、一之宮の身に染みついた価値観や考え方は、ことあるごとに彼を苦しめるだろう。  だけど一之宮は自分の意志で一歩を踏み出す勇気と行動力がある。そしてなにより、彼には人の何倍も深い優しさがある。 「大丈夫だよ。お前なら」  俺は一之宮の目をしっかり見て頷いた。 「お前はこれから、いくらでも遠くに行けるんだ。見たこともない、全然知らなかった世界にだって行ける。お前が望むならな」  俺が微笑みかけると、一之宮が驚いたように目を丸くした。その瞳がゆっくりと細まる。  自分の思いが目減りすることなく全部一之宮に伝わった。  なぜだか確信をもってそう思えた。目頭と胸が熱くなってくる。 「俺に出来ることがあったら何でもする。いつでも相談してくれ」  養護教諭の自分が彼に関わることができるのは、ほんの一時期だろう。出来ることだって限られている。  それでも、彼の明るい未来を誰よりも強く信じていたい。 「先生……」   一之宮が眉を寄せ、こちらに右手を伸ばしてきた。あまりに自然なしぐさだったので、身体が動かなかった。一之宮の人差し指が、何かを確かめるように俺の目元にそっと触れる。 「……え、い、一之宮?」  一之宮はじっと俺の顔を見つめていた。驚くほどに真剣な顔で、瞬きもせずに見ている。 「すみません、先生が泣いてるから……」  驚いた。自分では気が付かなかったが、涙が滲んでいたらしい。途端に羞恥が湧いてくる。 「泣いてないって。なんで俺が泣くんだよ」  ははっと笑いながら一之宮の指を払い目元を隠そうとしたが、一之宮の右手は離れていかなかった。逆に手を掴まれる。  露になった目元を、一之宮はじっと覗き込んできた。改めて目が合う。   「先生――、俺」   一之宮の視線にはおどろくほどの熱量がのせられていた。受け取るこちら側さえも沸騰してしまうかのような熱さだ。  なんだろう、これは。否応なしに引き付けられて一之宮から目が離せないのに、今すぐにここから逃げ出したい。  頬がかっと熱くなった。掴まれた手のひらからもじんわりとした熱が伝わってくる。いつのまにか心臓は早鐘を打っていた。  一之宮の口がわずかに開く。言葉をためらうように唇が震える――。  しかしそのとき、トントン、と扉を叩く音がした。  俺の身体も一之宮の身体も、びくんと大きく震えた。二人の間に漂っていたおかしな空気が弾けて散っていく。前に身を乗り出していた一之宮が姿勢をすっと正し、俺も飛び退くように距離を取った。  なんとも言えない雰囲気の部屋の中に、もう一度トントンと扉が叩かれる音が響く。  俺は火照った頬を擦り、誤魔化すように声を張り上げた。 「は、はい! どうぞ!」 「失礼しますね~」  のんびりとした声が響き、扉から三年の学年主任の先生が顔を出した。 「鶴見先生、ちょっといいですか? 先生にお客さんが来てまして」 「ええ、もちろんです」  一呼吸おいて椅子から立ち上がった。扉のほうを見ると、学年主任の先生の後ろには、スーツ姿の背の高い男性が立っている。その姿を見た瞬間、俺はそのまま固まった。    ――――嘘。  俺の唇からは小さく呟きが漏れた。 「京介さん……?」  心臓が痛いほどにどくどくと胸を打つ。  身体がぐらりと傾いたが、大きな手のひらが肩を支えてくれた。 「大丈夫ですか」  はっと顔をあげると、一之宮が心配そうに俺を覗き込んでいた。  ようやく我に返った。信じられない事態に、一之宮の存在を忘れるほどに動揺してしまっていたらしい。 「ごめん、大丈夫。ちょっとめまいがしただけだから」  ありがとうと礼を言って、体勢を立て直す。  一之宮のおかげで平常心が少し戻ってきた。心配そうな顔の一之宮に微笑みかけてから、扉の方に再度視線を戻す。 「お久しぶりです。堂島先生」  意識して腹に力をこめ、俺はなるべくはっきりと発音した。そうしないとまだ声が震えそうになってしまうから。 「久しぶりだな、鶴見くん」  記憶と寸分も変わらない、落ち着いたバリトンの張りのある声が返ってきた。  堂島京介。  俺の短大に心理学の講義をしに来ていた講師でもあり、三年前に別れた元恋人だった。なぜ彼がここにいるのだろう。 「いやあ、それにしても偶然ですよねえ。鶴見先生は堂島教授の教え子だとか。もしかして会われるのはかなり久しぶりですか?」  俺と京介さんのやりとりを見ていた学年主任の先生が尋ね、京介さんが嬉しそうに頷く。 「卒業以来かな。立派になった教え子の姿を見られるなんて本当にうれしい限りだ。な、鶴見くん」 「……はい」  俺の戸惑いを察したのか、学年主任の先生が俺に向かって説明を加えた。 「堂島教授には来週の講演会で話をしていただくことになっているんですよ。今日はそのための打ち合わせで来ていただいて。お忙しいのに本当にありがとうございます」  その言葉にようやく理解が追いつく。  来週の水曜日、外部から講師を招いて講演会が企画されていたのを思い出した。その講師が京介さんということか。  学年主任の先生の言葉に、京介さんは恐縮するように微笑んだ。 「いやいや、どんな学校なのか事前に見ておきたかったものでね。でも来て良かったよ」  にこにこと嬉しそうに笑う京介さんの表情に影は見えなかった。だからといっても安心できない。ここを訪ねてきたということは、何かの意図があるに違いないのだ。  一之宮が黙って俺の横顔を伺っているような気配がしたが、フォローする余裕はなかった。和やかに進んで行く京介さんと学年主任の先生の話を、固唾を呑んで聞くことしか出来ない。 「ところで鶴見くん、このあとちょっと時間を貰ってもいいかな。少し話をしたいんだけど」  会話を終えた京介さんがこちらを振り向き、俺の顔を見た。  ……話。一体何だろう。  話の内容が何であっても、こんなふうに下手に出られたら今の俺の立場で断ることなど出来ない。 「……はい」  俺はごくりと唾をのみ込み、小さく頷いた。 「それじゃあ堂島さん、私はここで。鶴見先生、あとは頼みます」  学年主任の先生がそう言い、京介さんと頭を下げ合う。さて、と京介さんがこちらに向き直った。 「それじゃ、行こうか」 「はい」  京介さんの言葉に仕方なく頷き、俺は一之宮の方を向いた。 「一之宮もそろそろ帰りなね」 「……嫌です」 「え?」  まさか嫌だと言われるとは思わなかったので、面食らってしまった。そっと伸びてきた一之宮の手が、俺の手首を握る。そのまま彼は俯き黙り込んでしまった。  どうしたというのだろう。常にない彼の様子に心配になったが、すぐそこで待っている京介さんを放っておくこともできない。 「あのな、俺はこれから堂島さんを送らなくちゃいけないから……」 「千草」  俺の言葉に京介さんの声が重なった。京介さんは扉の前に立ち、こちらを怪訝な顔で見ている。一之宮がはっとしたように手を離した。 「……すみません、なんでもないです」  一之宮は唇を噛み締め、一歩後ろに下がる。  「ごめんな、また今度ゆっくり話を聞くから」 「はい」   一之宮が小さく頷き、踵を返すと保健室を出て行った。  その後ろ姿は、大きな犬が尾を垂れ下げてしょんぼりしているかのようだった。罪悪感が湧いてくるが、俺は頭を振って気持ちを切り替えた。  一之宮のことは明日フォローしよう。  俺は心の中でそう決め、京介さんのところに歩み寄る。 「すみません、お待たせしました」 「いや。忙しいところ悪かったね」 「いえ」  放課後の廊下は人気(ひとけ)がなく、ひっそりと静まりかえっていた。京介さんと並んで歩く。 「三年ぶりだね」 「そうですね」 「元気にしてたかい?」 「はい……」  それきり会話は途切れてしまった。何か話そうと口を開きかけるのだが、結局言葉が出てこない。  沈黙を埋めるように、校庭の方から部活動に勤しむ生徒たちの元気な掛け声が響いてくる。京介さんが顔を上げ、窓の向こうのグラウンドに視線を向けた。 「ここはいい学校だね。緑も多いし、生徒たちも素直だ」 「ええ」  歩きながら、京介さんの視線が俺の横顔に注がれていることには気づいていた。でも俺はその視線の意味が分からなかった。ここに京介さんがやってきた意図も、まったく思い当たらなかった。  ……いや、なんとなくそうかもしれないと思うことならある。  京介さんは、俺を憎んでいるのではないか。そんなふうに思えてならないのだ。  もともと京介さんは俺の通う短大に非常勤で来ている講師だったが、特別に親しかったわけじゃない。俺は大勢いる中の学生の一人だったし、ろくに話をしたこともなかった。だというのに、京介さんは講義のあと、一人だけ教室に残った俺に交際を申し込んできたのだ。  確かに俺はゲイのコミュニティの中ではかなりモテるほうだった。がっちりした男が好みで、若く細身の俺はネコとして需要があったのだ。とは言っても、こんな真っ当な人から交際を申し込まれるとは露ほども予想していなかったし、信じられなかった。ゲイは男女のような真剣な交際をしないものだと思いこんでいたからだ。  だって男同士だ。未来も何もないじゃないか。  そんなふうに考えていたにも関わらず、京介さんの申し出を受けた。俺はそのとき身体的にも精神的にも疲れ切っていて、誰かに寄りかかりたかったのだ。そして見るからに裕福で余裕がある京介さんは、自分を支えてくれるだろうという打算があった。俺は京介さんのことを利用したも同然だった。  五年前の自分勝手な思考を思い出し、身体の底から嫌悪感がこみ上げた。唇を噛んで床を睨みつけていると、隣から困ったような声が降ってきた。 「そんなに固くならないでもらえると助かるのだが。別に取って食おうとはなどとは思っていないぞ」 「すみません」 「いや、謝って欲しいわけでもないのだが……。まあそうだな、突然昔の恋人が目の前に現れたら警戒はするよな」  京介さんはくすりと笑った。その笑い方が懐かしくて、胸がぎゅうと引き絞られる。でもそれは勝手な感傷だ。 「最近は高校や中学校から講演の依頼が来るようになったんだ。ほとんどはお断りしてるがね。でも今回は君が勤務する高校だったものだから、依頼を受けることにしたんだよ」 「俺がここに勤めてるって、知ってたんですか?」 「そうだ」  静かな深い声だった。 「情けないが君があれから何をしているか気になって、伝手を辿って探したんだ。講演会の依頼はまったくの偶然だったけど、堂々と君に会いに行けるチャンスだと思ったんだよ」 「俺に会いに? どうして」  京介さんが歩調を落として立ち止まった。顔をあげると、京介さんは俺のことをまっすぐに見つめていた。 「僕のところに戻ってこないか」 「え?」 「よりを戻して欲しいってことだよ」  ――よりを、戻す?   予想しなかった答えに、俺は瞬きをすることしか出来ない。京介さんがくすりと笑った。 「そんなに驚いた?」 「え……、あ、はい」 「うん……、まあそうだろうね。別れてから三年も経つから、信じられないのも無理はない。でも僕はずっと君のことが忘れられなかったよ。君と過ごした時間は、僕にとって本当に大切なものだったんだ」  穏やかな声と言葉に、罪悪感で胸がぐっと詰まった。黙り込んだ俺に、京介さんはさらに言葉を重ねる。 「君の手を離したことを、三年間ずっと後悔していた。もうそんな後悔はしたくないんだ。僕のこれからの人生は、君と共にありたい」
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