きみは勇者

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 IDとパスワードが見つからない。  身辺整理のために必要なものだ。  部屋中探してノートを1冊見つけた。このご時世、アナログでセキュリティに対する意識の低さに自嘲してしまうがぼくだけではないだろう。人間は忘れる生き物だ。だから思い出すためにログインするんだ。  PCを開き入力欄にIDとパスワードを打ち込んでいく。重い扉のように何重もの確認事項にわずらわしさを覚えつつ、作業的に進んでいく。メールの受信箱の未読が約600通。思ったより溜まっていない。どうせ興味のないDMだらけだろう。未開封のままマウスのホイールを指で下へ下へと転がしていく。日付が過去になっていく。記憶の砂漠を手で掘り進め、砂に埋もれた金貨を探り当てるつもりだった。  やっと見つけた。かつて冒険をともにした仲間たちのメールが残っていた。ぼくはそのとき勇者だった。あるいは彼らが勇者だった。一人ひとりが主人公だった。あらゆる顔が浮かび出す。それは教室のクラスメイトたちよりも鮮明に思い出せるドット絵。たかがオンラインゲームだったかもしれない。でも、ぼくの居場所だったんだ。彼らも孤独だった。単なる魔王退治のパーティじゃない仲間でもあった。彼らは今どうしているだろうか。  こんなぼくにも今度子どもが生まれる。父親になる。だからといって彼らに連絡したいわけじゃない。ぼくがそれほどマメなら結婚報告でもするはずだ。しかし実際は何年も連絡不通となっていた。返信は望めないどころか送信エラーになるのではないだろうか。  ぼくは確認したかった。  胸が高鳴った。メールボックスに同じ名前がずらりと並ぶ。「リョウ」だ。彼とはとても気が合った。ぼくらは他のプレイヤーと比べてレベルも低くて弱かったけど、弱いなりに二人だけでギルドで待ち合わせをして集まったり朝まで沢山チャットをしたりした。軽口を叩き合えた。リョウは大柄で強面の男戦士のキャラクターでプレイをしていた。「大丈夫だよ」と何かと気の弱いぼくの背中を押してくれる頼れる存在だった。  ぼくは彼に恋をしていたのかもしれない。いや、していた。会った事もないけれど、これほど気の合う相手はこの世界には存在しないとまで思っていた。  リョウからの最後のメールに目を通す。 「今まで嘘をついてすまなかった。俺は、いや、私は女だ。オンラインゲームでは女性だと明かすと何かとやりにくいのは君も分かっているだろう。それで隠していたんだ。女だと明かしていたら君とここまで仲良くなれなかったと思う。でも、だましているようでずっと辛かった。これで卒業する。今までありがとう。」  当時のぼくはあわてて返信したがエラーになった。もちろんリョウはゲーム内からキャラクターを削除していた。他のプレイヤーにもたずねたが誰一人リョウの消息を知る者はなかった。連絡する術が無かった。SNSも今より発展していなかった。  だが今なら呼びかければネット上で会えるのではないかと思う。伝えたい。君が男性だろうと女性だろうとそうでなかろうと、ずっと君に感謝をしていた事を。君のおかげで救われていた事を。君のおかげで引きこもりをやめられた事を。  でも、あの日ぼくは失恋したんだ。  思い出だけで十分だ。それを確認してけじめをつけたかった。愛する妻と子のために。  ふとぼくを呼ぶ声がしてドキリとした。もう0時だ。PCを閉じ自室を出てリビングへ向かう。「呼んだか?」と声を掛けた。ソファで妻が大きなお腹を揺らしながら笑っていた。TVにはお笑い番組が映っていた。 「面白いよ。一緒にみよう」 「何だよ。何かあったと思うだろ」 「えー? 何もないよ」 「夜更かしするなよな。一人の体じゃないんだぞ。あんまり無理するなよ」 「もう、心配症だなあ」と肩をすくめた後で「大丈夫だよ」と涼子は笑った。
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