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学園の近くに借りた、マンションの小さな部屋に帰り着くころには、あと数時間で登校時間というところだった。
何か適当に理由をつけて午後から出ることにする。
血が付いた衣服と白衣を下洗いして洗濯機に放り込んだ。
久しぶりに力を消費したため、身体は鉛のように重い。
シャワーを浴びて、ベッドに潜り込むものの、眠ろうにも眼が冴えてしまう。
あまりにも立て続けに色々なことがありすぎたからだ。
あんな形でかつての友人と再会したことに胸が軋んだ。
不意に、ふわふわしたものが頬に触れる。
パルウスが黒猫に戻り枕元に丸くなったためその毛が当たったのだった。その小さな生き物に頬を寄せ、体温と息遣いを感じているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。
夢の中で、ああ、これは夢だとわかる時がある。
この時もそうだった。
光に溢れた硝子張りの建物の内部に自分はいた。
ありとあらゆる植物に囲まれ、その世話に忙しかった。
見たことのない場所なのに切なくなるほどに懐かしさを感じた。
一枚が顔の大きさほどもある大きな葉をもつ植物の水やりを終えて、振り返ると大柄で褐色の精悍な顔つきの天使が入ってきた。
なぜか自分はその人物をシェムハザだと認識していた。
「近々、下界に下りる希望者を募るらしい」
そう言って、近くのカウチに腰を下す。
「行くのだろう?」
「勿論。こんな機会なかなかないからな。お前はどうする?」
「……行きたい気持ちは山々だが、少し迷っている。ここを暫く留守にすることにもなるし」
そう言いながら、温室を見回した。
「なんだそんなことで迷っているのか。他の者にその間任せればいいことだろう」
理解できないというように、肩を竦めて言う。
「そうそう簡単なことでもない」
「そんなこと言って、地上の草だの花だの見たくてたまらない癖に」
底意地の悪い笑みを向けられ、思わず睨み返した。当たりだからだ。
「私は、あの一団については反対だわ」
高いソプラノの声が響く。
「お~お~大天使様のお出ましときた」
シェムハザはそう言って立ち上がり、ワザとらしく敬礼をする。
真っ白いケープを翻して温室に入ってきた人物は、「心のない演出は結構よ」と切り捨てる。
何故か、逆光で物を見ているかのように相手の顔はぼやけて見ることができない。
夢の中の自分はシェムハザを宥めつつ苦笑しながらその相手に椅子をすすめた。
「昇格おめでとう」
そう言って、用意していた花束を渡す。
「ありがとう。心から祝ってくれるのは貴方だけよ」
白いケープの人物が嬉しそうに花束に顔を埋める。
「そんなことはないだろう。それにしても反対とは?」
「地上に下りる話よ。参加はしないで」
「なぜだ?」
シェムハザがさっきまでのお道化た様子を引っ込め、鋭く尋ねた。
「嫌な予感がするのよ。そもそも目的がはっきりしないし」
「お前らしくないな、予感なんて」
その言葉に、考え込むようにその人物は沈黙した。
「どっちにしても悪いが我はもう申し込んじまったしな。それにそいつも行くと思うぜ?」
自分を指さしてシェムハザが言う。
問いたげな視線を感じ観念して応える。
「はいはい。行くことになると思う」
「二人とも、意志は変わらないのね。ならばくれぐれも気をつけて」
そうする。ありがとう、と言ったところで目が覚めた。
シェムハザとあともう一人、顔も名前も思い出せなかった。
その部分だけ消しゴムで消されたように、白く空白になっている。
こんな夢を見たのは初めてだった。幸せでいつまでも見ていたいようなそんな夢だった。
気が付くと、睫毛が濡れいている。
懐かしさに胸が軋む。
まだ寝ぼけているせいだろうか、と体を起こして壁にかかっている時計を見て、夢のことは全て吹き飛んでしまった。
予定の時間を大幅にすぎていたからだ。
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