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西園寺の教室に近づくにつれて、空気は淀み、禍々しい気に満ちていた。夕方とはいえ、学園内にはまだ多くの教師がのこってるはずだ。なのに、人の気配は感じられなかった。結界のようなものの中にいるのかもしれない。
慎重に教室のドアを開けて中に入る。一歩踏み出した、その時。
「新田先生」
耳元で名前を呼ばれ、首筋が泡立つ。
背後を振り向くと、少女が逆さに浮かんでいた。自分の部屋に来たときと同様に微笑を浮かべ、その瞳は血のように赤く光る。
「パルウス!!」
新田は叫び片手を上げた。
「マスター!」
何処からか応答し、現れた少年の姿は変容し、新田の掌に銀色の銃が収まっていた。
間髪入れずに、躊躇なく逆さに浮かぶ少女に向かって銃口を向け引き金を引いた。
それよりも早く、少女は体を傾け弾を避ける。
新田は小さく舌打ちして、新しく弾をこめる。
「酷いじゃないですか、先生。私、お話したいだけなのに」
「お前に先生なんて呼ばれるいわれはない」
少女は肩をすくめて、小さく何かを唱える。
途端に地鳴りが響く。
「ーー!なんだ?」
大きく揺れる地面に体勢を崩して床に手をついた。
巨大な赤黒く禍々しい腕が何本も教室の床から現れた。その爪は長く鋭い。
不思議なことに、教室のものは何一つ損なわれることはなく、まるで透けているようだった。
少女が軽く手を振る。
「くそっ!」
巨大な腕の一つが新田に向かって伸びる。身体を翻し、すんでのところで教卓の後ろに飛びこみ膝をついた。
「くッ」
腕からは逃れたが、長い爪は新田の足を掠めていた。
タイツが破れ血が流れる。羽織っていた白衣にも飛沫が飛ぶ。
「あらぁ。かくれんぼなんですか、先生」
からかうような少女の声が響く。
新田は乱れた息を必死に整えた。
タイミングを逃してはいけない。次で決める。弾が当たりさえすれば。この銃は対魔用の特製なのだから。
向こうは油断しているはずだ。声の近さで距離をはかり教卓から飛び出し、引き金をに指をかける。
狙いは正確にロックできている。
あとは、引き金を引くだけ。それなのに。
「この娘の魂は、まだここにあるぞ」
今までとは違う、男の声で少女は喋った。
「ーー!!?」
一瞬の動揺の隙に、距離を詰められる。気付けばすぐ真正面に少女の顔があった。
咄嗟に体をのけぞると、背中が黒板にぶつかる。逃げ場はない。
少女は、教卓に肘をついて、笑みを浮かべながらこちらを見ていた。
「何世紀経っても、おまえは進歩がない」
その声色、喋り方、遠い記憶が引きずり出され、背中に悪寒が走る。奥歯を噛みしめて震えそうになる。銃を握る手元に力をこめた。
「貴様……」
「久しいな、相変わらず元気そうだ。友よ」
目の前の相手の正体への確信が深まり動揺が胸に広がった。
「なぜ、お前が…シェムハザ」
名前を呼ばれて少女の笑みが深まった。
「なぜとは愚問だな。この娘が我を召喚したからだ」
新田は眉を寄せる。あの魔法陣は確かに上級悪魔を召喚するものだったが、こんな高位のものを呼び出すほどの効果はないはずだった。それに…。
「西園寺との契約は果たされてない。水無瀬玲は生き返ってはいない。何故お前がいる」
新田の言葉に、可笑しそうに少女の姿をした悪魔は高らかに笑った。
「契約とはどう成立するか、忘れてしまったのか? 平和ボケだな」
「忘れてはいない。西園寺は自分の魂を差し出した。その対価は払われていない」
「そう、この娘は自らの魂を賭け、死者の復活を願った。だが、我の召喚にこんな小娘の魂など釣り合うわけがない。契約は双方の力のバランスが大事だと何度も教わっただろう? 契約なぞ成り立たん」
新田は舌打ちする。
この悪魔の言っていることは残念ながら正しかった。賭ける魂と悪魔の力のバランスが取れなければ契約は破棄され、魂は喰われるだけだ。悪魔召喚とはそういう意味をもつ。けれどこの悪魔が出てくるはずがないのだ。
「一体お前の目的はなんだ。何故西園寺の召喚に応えた」
「ちょうど良かったのだよ」
「なにが……」
「もう最後の審判まで、時がないものでな」
「最後のだと……?」
「この世界はもう終わる。我がここにいるのがその証拠だろう」
そうだ。
今までならこの悪魔が下界に出てこれるわけがないのだ。
何故なら、遠い昔同胞の手によって最後の審判の時まで、深い地下牢に封じられたはずなのだ――あの時に。
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