終末は神とワルツを

9/12
前へ
/12ページ
次へ
悪魔は生徒用の机に座り足を組んで言った。 「最後の日までに、こちらも出来るだけ手駒を増やしておきたくてな。それにはこの島国はなかなか都合がいいのだ」 「今更何をする気だ」 「永遠に思える時間を、地下深くでずっと待っていた。何もかも奪った復讐を奴らにするために」 「そんなこと、リエルが望んでいると?」 リエルという名前に、一瞬悪魔の瞳が懐かしそうに揺らぐ。それは一瞬のことで、すぐに赤く燃える瞳に戻る。 「何もかも忘れたな」 銃を握りしめたまま黙っている新田に向かって、悪魔は続けた。 「知っているか? この国には自死を尊ぶ文化がある。そのせいか、飛びぬけて若い娘の魂が手に入りやすいのだ。こんな環境はそうない。それにな……」 言葉を切って、新田を見る。 「お前もいるのがわかったしな」 「私がなんだ」 「もう、いいだろう? 天界からも追放され、かといって悪魔にもならず。人でもなく。なんでもない存在は無力でしかなかろう。お前がなかなかこちらに来ないから、我がじきじき迎えに来た」 「じゃあ、無駄足だな」 新田はそう言うと再び銃を構えた。 「撃てるのか? この娘の魂はまだここにあるのだそ?」 「信じられるか。西園寺の魂を残しておくメリットはお前にはないはずだ」 「お前がこちらに来るのならば、この娘の魂を解放すると言ったら?」 「…! そこまで外道に堕ちたか」 「誉め言葉にしてもつまらんな」 呆れたように、悪魔は言った。 シェムハザは嘘をついてはいない。西園寺が生きている、という喜びに胸が震える。だが、状況はあまりにも悪かった。 魔道に堕ちたくはなかった。けれど、西園寺を見捨てるという選択肢はなかった。銃を握りしめたまま逡巡する。 「そろそろ、どちらかに決めてもらおう」 そう言って、悪魔が手を翳した、その時だった。 「勝手な真似は困りますわ」 鈴を転がすような声が響きわたり、あたりが一瞬にして白く輝いた。 一拍おいて、それが無数の光の矢が降り注いだのだとわかる。巨大な腕は叫びとも地鳴りとも区別のつかない声を上げて消滅した。 悪魔は、これ以上ないというほど憎々し気な視線をドアの方に向けた。悪魔の視線を辿りふり返り、新田は目を驚きに見張った。 「神谷先生…?」 「ミカエル…!」 新田が呟いたのと、悪魔が名前を読んだのは同時だった。 「なんだって?!」 新田が傍らの悪魔を振り返った。 「お前、これだけ近くにいてあれの正体に気付かなんだか。完全に平和ボケも重症の域に入っているぞ」 悪魔が、神谷から視線を外さないまま新田に言う。 「あら、新田先生、綺麗な髪が台無しですわ」 神谷がシェムハザの存在などどこ吹く風といったように、涼し気に新田に語りかける。 けれど、改めて言われてみれば、あのどうしても神谷の近くに寄りたくないという忌避感は彼女の正体を考えれば実に腑に落ちることだった。 「何しに来た!お前なんぞ呼んでいないぞ!」 悪魔が吼える。 「言ったじゃありませんか。勝手は困りますわと」 神谷が、眼鏡を神経質そうに上げる。そうして、新田に微笑みかける。 「さては、貴様もこいつが目的か」 悪魔の言葉を無視して、神谷は新田の方に歩み寄る。 「新田先生、いえ、永遠の迷い子の可哀そうなニューター」 何世紀ぶりかに耳にした呪わしい呼び名が、心を揺さぶる。 天使でもなく、悪魔でもなく、ましては人でもない、何にも属さない存在を彼らは「狭間の者」という意味で「ニューター」と呼ぶ。侮蔑を込めて。 思わず、一歩後ずさる。 「最後の時はすぐそこまで来ています。この悪魔が言っているのは本当」 「貴様も、駒集めか!これはやらんぞ…むッぐ」 「ちょっと黙ってらして」 神谷が放った光の輪が悪魔の首を締め上げる。 「残念ながら、この世界はもう閉じるそうです」 「……勝手なことを」 「主の御心ですわ」 「糞くらえだ」 初めて、神谷が嫌悪感に眉をひそめる。それは一瞬で消え、再び慈悲深い微笑を讃えた。 「もうよろしいじゃないですか。人間の傍にいることはもう叶いません。人間の世は終わりを迎えます」 「お前たちがまた、勝手に終わらせるんだろう。またすべてを都合のいいように書き換えて」 「あら、エクノが書き残した書のことを言っているのかしら」 「予言とは便利だな」 大洪水を記した『エクノ書』には、天使は人間と交わり堕落し、天使と人間の間の子どもはおぞましい巨人となり共食いをしたと書かれている。 その間違った世界を神が正すための洪水だったのだと。 「嘘ばかりだ」 「嘘とは心外ですね。見解の不一致では。…まあ、あれも今では偽書扱いなので不出来でしたけど」 天使が口を開くほどに胸が悪くなった。 「どちらにしても全ては人自身の愚かさ故ですわ……。貴方ももう身の振り方をお決めになる時です。主も今でしたら戻ることをお許しになるでしょう」 「はっ…!まるで閉店大セールってやつだな」 笑いながら新田は銃口を神谷に向けた。 自分で世界を作っておきながら、気に入らなくなっては、リセットしては創りかえる。現世はいつでも神の玩具だった。 神谷の顔には憐れみと嘲りの表情が浮かぶ。 「それが、貴方の答えなのですか」 「……」 「こんな、愚かしい存在と運命を共にすることになんの意味があるのでしょう」 「……意味があるとかないとかうんざりなんだよ。お前たち天使も悪魔もみんな私にとっては同じだ。自分たちの言い分ばかり押しつけやがって、勝手に争ってろ!!」 神谷の顔から全ての表情が消える。両手が前で組まれる。目の前が光で満たされる。覚悟をした。だが、予想した衝撃がいつまでも経っても来ないことに薄目を開ければ意外な背中が目の前にあった。 少女が自分の前に立ちはだかっていた。 「シェムハザ…!」 「な…んで?」 「こいつは、我のだと言ったはずだが?」 再び神谷が手を組もうとした、瞬間悪魔も手を上げる。そのまま二人は暫く対峙したまま動かなかった。 先に神谷が諦めたように、肩を竦めて、手をほどいた。 「ここで貴方と争っても何のメリットもありませんわ」 「お互い様だな」 「今は、ですけどね」 そう言って神谷は踵を返してドアから出ていった。 「夜が明けるな」 悪魔が呟く。 少女の形をした悪魔と二人教室に残される。先ほどまでの死闘が嘘のように穏やかと言える静寂に満たされていた。 窓を見れば暗闇に亀裂が入り目まぐるしく色を変えた空は、次第に眩い陽の光にあふれる。 教室の隅々までに、太陽の光が満ちる。 少女の頬を優しく朝日が照らした。 「今更復讐なんてして、何になる。お前が今とらえている娘の魂だってお前とリエルの末裔なんだぞ」 思わず言葉が溢れた。 「何千年も復讐のことだけを考えていたんだ。何になるかなどどうでもいい」 固い何も寄せ付けないような声で悪魔が応えた。 新田は目を伏せた。 分かってはいた。 自分が知っているシェムハザはもういないのだということを。 快活で、話も上手く、頭の回転も早く、腕も立つ。植物ばかり相手をしている自分とは真逆のような存在だった。どこかで憧れてもいた。 だから、リエルが自分ではなくシェムハザを選んだときは落胆よりも、納得が大きかった。 もし自分がリエルの立場でも、彼を選んだはずだから。 その太陽のように力強く明るいシェムハザが、今は暗く憎悪だけを糧に生きる闇の存在に変わり果ててしまったことが苦しかった。 天使が悪魔に堕ちるとはそういうことだ。 「西園寺、そこにいるんだろう?」 新田の言葉に、悪魔は無表情で佇んでいた。 思わず華奢な両肩を掴んで揺さぶった。 「西園寺!私は君が水無瀬玲を失ってそれでも何故生きなければならないのかと尋ねた言葉に答えられなかった。それでも生きていてほしかったんだ」 腕を掴んだまま、ずるずると膝をついた。 「君は、水無瀬玲まるで存在しなかったかのような世界を許せなかった」 気付くと頬を冷たいものが伝っていた。 それが自分が泣いているのだと遅れて気付く。 「でも、君がいなくなってしまったら、彼女を覚えている者はいなくなってしまう。君が知っている水無瀬玲は完全に失われてしまうんだ、だから…!」 そうだ。大洪水の前のことを覚えているものは、もう自分しかいない。 残っているのは偽書のような、おおよそ自分の記憶とは違う記録ばかりだ。天使たちによって地に悪魔として封印された同胞たちが、どんなふうに笑ったか、話したか、誰ももう知るものはいない。 長い長い時間の中で、人でもなく何でもない自分という存在はあやふやで、ただ孤独だった。 寂しかった。 それでももし、ここで、自分か消えてしまったら、何もなかったことになる。 そう思えば、遠い昔の約束の前にも非力な自分も、消えるわけにはいかなかった。 無表情だった少女の表情が少し困ったような顔になる。 口元が「せんせい」と形を結ぶ。 「西園寺…?」 光が悪魔の姿を朧げにしていく。後ろの教室の景色が透けて見えた。 「では、またな」 頬に柔らかな少女の手が触れる。その細い指がそっと目元の雫を拭った。 ーーもう、泣くな 「まて……!西園寺!!…シェムハザ!」 手を伸ばすも、少女の姿は光の中、跡形もなく消えてしまった。 そのまま新田は教室の床にずるずると座り込んだ。 「また…救えなかった」 「マスター…」 変身を解いたパルウスが、黒猫の姿で新田の側にすり寄った。 空を見れば、太陽はすっかり登りきっていた。青空が広がり、鳥の囀りも聞こえる。数時間後には、生徒たちが登校し、賑やかな声であふれるのだろう。 何事もなかったように。 また、新しい一日が始まる。 そんなことをもう一体何千回繰り返したのだろう。 けれど、それももう時期終わりを告げる。 ーーもう、よろしいじゃないですか。 天使の言葉が蘇る。 これ以上、抵抗することは無駄なのだろうか。かつてない虚無感に襲われる。 突然カラスが鳴き声を上げて飛び立つ。驚いて肩を竦めた。 我に返る。改めて己のなりを確認してため息ついた。とにかく一度家に帰って身なりを整える必要があった。 足は血まみれ、着ている白衣にも血痕が付着していた。 こんな姿を早朝から見られたら大騒ぎになってしまうだろう。 「帰ろう」 立ち上がると、黒猫が肩に飛び乗り頬に擦り付けた。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加