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解呪
商人にとって、契約書は絶対なものだ。
彼は不満を口にしながらも、仕方がないとばかりに慌てて結婚式の用意をしてくれた。
その日の夕方には小さな宴会場が用意され、結婚式という名の宴が開かれた。このスピード感は嫌いじゃない。
話がどうまわったのか、周囲からの視線は痛いものの、それは私が嫁ぐに至った経緯を考えればいたしかたないものだと思う。
はたから見れば私は、ただ押しかけてきた嫁なのだから。
だからいやいやながらも責任を取ろうとするだけ、この一家は誠実なのだと私は思う。
「おーい、ロア。お前こんな綺麗な嫁さん貰うなんて聞いてなかったぞ! おめでとう!」
酒が随分回っているのか、赤ら顔の男が私たちの座る新郎新婦席にやってきた。
だけど私の隣に座る夫は、ふてくされた顔を隠さない。
「いくら綺麗な顔をしていても、喋れもしない。貴族の娘なんか着飾る事しか能がないんだから、うちの店にとってはただの負債だよ」
「がっはっは! 言うねえ~! どうせ結婚なんて人生の墓場だ! ほら、飲め飲め!」
男はそう言って、不機嫌そうなロアに酒を飲ませた。
結局宴が終わるまで、夫とは一度も視線が合うことがなかった。
この家に来て半日、急ピッチで整えてくれたという夫婦の寝室のベッドに私は腰かけた。
店から少し離れたところにある家は、家族だけが暮しているのだという。平民の家にしては珍しく風呂場があって、経営状況は悪くない事が察する事ができた。
望まれぬとはいえ、結婚だ。
式も終わり、次になにが待っているかは私も知っている。
さすがに緊張して落ち着かない。
そわそわしていると扉がギイと小さく鳴った。
「起きていたのか」
ロアは眉をしかめてそう言った。
それはそうだろう。今夜は初夜だ。夫婦の初めての夜なのだ。
妻として仕事を全うしなければならないに決まっている。
書き板を取り出し、その旨を記そうとする私をロアは手で制した。
「お前の兄と酒を飲んでいたことを思い出した。あの頃は失恋して、最悪な気分だったよ」
結婚を考えていたはずの女性が他の男と結婚して、弄ばれた事を知って傷ついていた彼は、遊びに繰り出した先でうちの兄と出会ったらしい。
それでなんだかんだと口車に乗せられて、私と結婚する書状を書かせられた挙句、無事結婚した暁には謝礼を渡すという契約書まで結ばされたという。
賢い兄の事だ。
おそらくロアが酒に弱い事も、経営者としての自覚が弱い事も、全て折り込み済みでその契約書を用意していたのだろう。
きっと今頃は面倒な妹も片付けられて、その上入ってくるであろう謝礼金を考えご機嫌に過ごしていそうだ。あの兄にはそういうちゃっかりとした面がある。
ただ夫には申し訳ないが、その謝礼金で少しでも領民に還元できるのなら大変助かる。それくらい、今年のあの家の収支は危ないのだ。
ロアは今日何度目かわからないため息をついた。
「結婚はする。だがもうきみに出せる金はない。頼むから何もしないでくれ」
悲痛な呟きを聞いた瞬間、喉の奥に不思議な感覚が宿った。
あたたかい光が膨らむような、そして何かを押し上げていく。
思わず喉に両手を当てると、それはパチンと弾けるような感触があった。
私にはこれが何なのか、すぐに分かった。
「喋ることもできない貴族の女なんて、面倒を押し付けられたものだ」
頭をかきむしる夫に、私は思わず叫んだ。
「大丈夫!! 喋れまあす!!!!!」
「ひっ!?」
おっと、久しぶりに声が出たものだから声量の調節に問題があったらしい。
ロアは驚いた顔で耳を塞いだ。
おそらくロア自身が「私と結婚する」と認めたことで、母のかけた呪いが解除されたのだろう。
結婚するまで一切しゃべらず、おとなしくしている事。それが母のかけた呪いだからだ。
「改めて初めまして旦那様!!!! アラーラと申します!!!! 誠心誠意、旦那様のために尽くしたいと思いますのでどうぞ!!! よろしく!!! お願いしまあああああす!!!」
声量調節がまだ上手ではないけれど、私の意気込みは伝わったようだ。
避けられていた視線が合うのだから。
ただ夫であるロアの顔色はなぜか悪い。震えてもいる。
やはり祝宴で飲みすぎたのではないだろうか。
「あ、あの……俺はちょっと今夜は別の部屋で寝る……」
先ほどまでと打って変わり、なぜかおずおずとした様子の夫はそう言い残して部屋を出て行ってしまった。
初夜だというのに取り残されてしまった私は、少し考え、それから納得のいく解答に思い至る。
「なるほどロア様は飲みすぎて!!!! アレが役に立たないという状況ですね!!!! それは初夜も完遂できないのも!! いたしかたないです!!!!」
おっと小さな独り言のつもりが、また大きな声が出てしまったようだ。
私は換気の為開けていた窓を閉めてると、それから大きなベッドで一人転がった。正直私も今日は疲れていたので、初夜が延期になった事は純粋に助かる。
慣れない一日を過ごした私は、そうしてその晩は一人でぐっすりと眠ったのだった。
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