雨降ったとて

1/1

10人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ

雨降ったとて

道端で会った時、佑、と呼ばれたのを思い出した。 何で僕の名前を知っていたのか、やっと繋がった。 おじさん、ありがとう。 そう思ったけど、口には出せなかった。 せっかく助けた子がこんな奴になったなんて、できれば思われたくなかった。 もうすでに、おじさんは分かっていたんだろうけど。 「おい、少年。外に出るぞ」 車が止まり、おじさんが言った。 ゆっくりとドアを開け、息を吸い込む。 生きてる、と思った。 眼下に広がる、眩しい雲と光。 放たれる色彩に、目が眩みそうだった。 雨はもう、とっくに上がっている。 「綺麗だろう」 「うん」 「だけどよぉ、これは特別なものでも何でもないぞ。ただの朝焼けだ。しかも結構曇ってる。もしお前がこれを見て感動するんだったら、お前はもっと生きた方がいい。こんな景色より美しいものが、案外世界にはあるんだ。どうとも思わないんだったら別にいいけどな。美しいものをみたいなら生きればいい。生きる意味なんて何でもいいんだ、生きてりゃいいんだよ」 「どうだい。誰も知らない何処かへ来たつもりだったけど、それほどのものじゃなかったかもな。ははっ」 記憶を手繰り寄せると、波の音が微かに聞こえた。 喧騒の中、水中での出来事が思い出される。 苦しくて、苦しくて、痛い、落ちていくような感覚。 「あの時だよ、生きてて良かったと思ったのは。自分の手で救った人がこの世の何処かで生きてると思うとな、嬉しかったんだ」 言葉が出なかった。 「それからだよ。俺ぁなあ、もう死ぬ気でいたんだ。どうでもいいと思っていた。それでもよ、なんだかよく分からないけど、どうしてか生きなきゃいけないような、そんな気がしたんだよな。お前がいたからだよ、俺が今此処にいるのは」 「久しぶりだな、少年。立派になったもんだ」 僕は立派でも何でもない。 こんなに素晴らしい人に、救われていい命じゃなかった。 それでも。 「うん、久しぶり」 「少年。じゃないな、佑」 僕はおじさんの顔を見上げた。 まるで映画のようだ、と思った。 背後には、僕の知らない景色がどこまでも広がっていた。 これだけじゃないんだ、と思った。 僕の知らないものは、これだけじゃない。 目に浮かんだ雫を振り落とすように下を向いて、また見上げる。 「生きろよ」 「うん」 僕は頷く。 「わはははっ」 最後の最後まで、おじさんは笑っていた。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加