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一場春夢
洞穴の中に置かれていた日記を読み終えて、私はふぅと息をついた。
事の発端は死んだ祖父が管理していた山に誰かが勝手に住み着いている形跡があると連絡があったことだ。あんな何もない山の中でどうやって生きていけるのだ、と半信半疑で行ってみたが、洞穴の中に確かに居住の跡が見つかった。水を受ける容器や、布団代わりにしていたのであろう段ボール、空いた缶詰の山、そしてこの日記があった。しかし事前にこちらの動きを察知したのか、あるいはもっと前からいなくなっていたのか、しばらく待っていても人が帰ってくる様子はなかった。
何のために作られたのか分からない牢屋みたいな洞穴の鉄格子に買ってきた鍵を取り付けて、人が入れないようにしておいた。だが何となくだが、居住者が帰ってくるような気はしなかったので、あくまでしるしだけの対策のつもりだ。恐らくどこかまた違うところに行ってしまったのだろう。そもそも電話を受けたのが大分前だ。長い距離を隔てた田舎に赴く気力を振り絞るのに大分時間をかけてしまい、あれやこれや理由をつけて調査を遅らせていたのが徒になった。
また何かあるようなら警察かなと思い、立ち上がろうとする。でも何だか立ち上がるのが億劫だった。ひどく疲れている。何でそんなに疲れているのか自分でも最初分からなかった。しばらくしてから体が強張っていることに気が付いた。その強張りを自覚すると同時に日記によるものだと合点がいく。文章こそつたないものの、著者の苛立ちや失望、何より怒りが伝わってくるかのようだった。怒っている時は字が荒れて、そうじゃない時はやや小さい文字になる。そんな手癖の1つ1つに著者の息遣いが込められているかのようで、知らぬ間に肩に力が入っていた。
喉に何かがつかえている気がした。それについて考えていると、胸がさざ波のようにざわついてくる。つけっぱなしの卓上電気スタンドがちかちか点滅し始める。かなり長い間使っているためか、挙動が最近ちょっと怪しい。流石に火はつかないと思うが、高い物でもないので近いうちに買い直すことに決める。ただ買いに行くのが億劫だ。ネットで買えばいいと自分でも思うが、探す手間も辛い。エネルギーが枯渇している。日記のせいもあるが、何年も山なんか登ってこなかったのでそれも体を重くしているのだと気づく。でも本当にそれだけか。自分の中の何かが意地悪く呟いた気がした。
喉のつかえが目頭を熱くさせ始めたので、慌てて私はアニマを呼び出す。すっかり私もこいつに馴染んだ。最初の頃は霞のような存在でしか見えなかったが、今でははっきりとまるで確かに実体を持っているかのように見える。私の場合は、宙を浮く茶色がかった犬のように見えている。だが、親しい友人に聞いてみるとこれがライオンだったり、蝙蝠だったり、あるいは愛する女性だったりするらしい。有史以来その存在が感知されてこなかったが、アニマは元来、人の中に存在していた人間の相棒みたいな存在だったのではないか、という説を言う人もいるぐらいだから、それが事実だとすると、その人に合った形で見えるようにそもそもなっているのだろう。
未だにはっきりとしたことは分かっていないアニマを利用して、私は自分の幸福感を増幅させる。陽気が生まれてくる。先ほどまで感じていた鉛のような疲労感も気にならなくなるほどで、私の顔にはだらしない笑みが浮かんでくる。多分他人に見られると恥ずかしいぐらい、体全体が弛緩しているのだろうが正直この楽しさを味わったら人の視線など大して気にならない。満員電車の中でもアニマを使っている人間もいるぐらいで、偶に快楽を楽しみすぎたというだけで副作用に関係なく倒れる人も出るぐらい、気持ちいいのだ。
しばらく極上の幸福感に身をゆだねていたのだが、胸のあたりが苦しくなってきた。何かおかしいと理性は告げてくる。最初の方は幸福感が理性を圧倒して無視できていたが、苦しさは増していき、遂に私は快楽に浸るのを諦め、うら寂れた現実に戻ることを余儀なくされた。アニマの使用を止め、幸福感が徐々に引き潮のようになくなっていく。この部屋の中には呼吸を荒くしながら、椅子に座っている中年男がただ1人だけぽつんといる、ということに妙に意識が向いてしまう。幸福感が急激になくなった影響で余計にその事実に打ちのめされた。
胸の苦しさは最初こそ病院行きを覚悟するほどだったが、少しすると収まってきた。初めての現象だった。額に汗を流しながら、私はとりあえず生きていることを神に感謝した。
「何か病気だろうか?」
ぼそりと呟く。不謹慎かもしれないが、病気であってほしかったからあえて言葉に出してみた。アニマの副作用であってほしくはなかった。副作用の出方は人それぞれでこちらも全く知見が溜まっていない。もしかしたらこれがそうかもしれないと思うと、強い恐怖が湧いてくる。二度とアニマが使えなくなるなんて御免だ。数年前に人類の前にちらほらとその姿を見せ始めたこの奇怪な存在は、今や私にとってもなくてはならない存在なのだ。
椅子から立ち上がって、書斎を出る。何となく誰かと話したい気分だった。階段を上がって2階へ行き、リビングダイニングに入る。妻がそこにいた。ソファにゆったりと座っていたので、後ろから様子をうかがう。でも結局後ろからでははっきりとした様子が分からなかったので、前に回って顔を見る。ああ、駄目だ。妻の目は焦点が合っておらず虚空を見つめている。アニマを使っていることは明らかだ。
妻は基本的に優しいが、アニマが絡んだら怖い。まあ誰でもそうだ。人間にとって一番大切なのは間違いなく幸福を得ることで、それが取り上げられるとなったら場合によっては命すら危ない。食事をしている犬から、皿を奪うような所業は人間に対しても行ってはならない。アニマに溺れている時に、大した用でもないのに邪魔をされると私だって怒鳴りつけたくなる。
より深い孤独感を抱きながら、私はリビングダイニングを出る。また後で話せばいい。そう自分に言い聞かせても、辛さは中々軽減されない。
階段を降りて再び書斎に入り、部屋の明かりをつけずに卓上電気スタンドだけを点灯させる。今度はタブレットを起動する。電気スタンドのことを調べようかと思って起動したのだが、相変わらず倦怠感が続いているので、結局動画アプリの方を起動する。何かくだらないものを観たいと思いながら、おすすめ動画を数秒眺めて適当にタップする。広告を流すに任せて1分後、動画が始まる。動画投稿主の初老の男性が安っぽい終末論を語っている。あの日記の著者が見たら親近感を抱くのであろう内容で、長々と身の回りで起きたことを話しているが、要点としては、アニマによって堕落した民が増えすぎている、このままでは破滅だ、というものだ。あまりにもテンプレで、最初はからかい半分で聞けていたが、徐々に胸のあたりに先ほどとは違うむかむかとした感触が生まれてくる。たまらずに動画アプリを閉じて、ついでにタブレットもスリープ状態にする。
読み終えたばかりの日記にもう一度手を触れる。この著者はまだ生きているのだろうか。それとも死んでしまっただろうか。もしかしたら諦めて家に帰ったのだろうか。何の関係もないはずなのに妙に気になる。少なくとも一番最後の選択肢はないような気がした。1人の大人として子供に死んでいてほしくはないと思うが、今の時代はアニマを使わない人間にとってはかなり辛い。使用の有無は各人に任されている。いや、というより本来は使わないことの方が称賛されるべきことなのに、使っていない人間に対する同調圧力は強い。
お前も俺たちと同じになれ。真綿で首を締めるかのような、じわじわと忍び来るかのような、圧力。最初は抵抗していた私も妻も最終的にはそれに敗北した。
敗北? 敗北なのだろうか? 何となく椅子に座りながら、2回足踏みする。過去、人類が新たな力を得ることで、生き方や考え方を変えたことなんて何度もあった。SNSが発達すれば地球の裏側で起きていることに対してもリアルタイムで反応できるようになった。ネット通販が発達すれば、金さえあれば家から一歩も出ることもなく数日中には欲しいものが手に入るようになった。それは昔の人ではなしえなかった魔法のような変化で、私たちはその変化を自然と受け入れてきた。
アニマの存在もその一種としてとらえるべきとする考え方もある。その考え方はどう言いつくろっても間違いなく人類側のアニマに対する白旗を象徴するもので、どれだけ厳しく抑え込もうとしてもとどまることなく広がり続けるアニマを前に出てきた、やけっぱちのような思想だったのだが、それでいて色々としっくりくる時もある。社会を存続させることの意味なんて、正確なところは社会学者や人類学者でも意見が分かれるかもしれないが、もしそれが人間1人1人の幸福の追求にあるのだとしたら、今の社会はその目的にかなり近づいていると言える。
副作用で死ぬ人間はいるが、大抵の人間はそれに襲われることなく快楽を享受している。ある意味では、アルコールと似たようなものだ。体質的に合わない人間もいるが、肝臓が鉄でできているのかと思うぐらい飲める人間もいる。そうだ。太古の昔から人間は色々な嗜好品を享受してきた。それと何が違うのだ? 違うものと言えば使用者の人数ぐらいだろう。でも、全員に近い人類がそれを使っているとなると、むしろ条件は同じとなる。全員横並びで、平等な状態とすら言えるのだ。
事故や病気で死ぬ人間は昔からいる。いいじゃないか。その言葉を口から出してみる。人の主要な死因の1つにアニマが入っただけだ。運が悪かった人、アニマに弱い人は死ぬ。理不尽なことかもしれないが、社会全体へのメリットがデメリットを凌駕するなら受け入れられる。車だって飛行機だって事故は起こすが動き続けている。それが進歩というものなのだ。
考え事をしすぎて頭が痛くなってきたところで、ふっと部屋の中が暗くなった。電気スタンドの方に目を向けると消えていた。数回スイッチをカチカチ押してみる。点灯しない。逆効果になるかもしれないな、と思いながら数回電灯の傘となっている部分をペシペシ叩いてみる。点灯しない。何度かそういったことを繰り返す。うんともすんとも言わない。完全に壊れたようだった。ため息と苛立ちが自然と生まれてくる。電気スタンドの近くに置いてあった日記に偶然手が当たる。その内容を再び頭の中で思い出してしまい、背筋が冷えた。ホラー小説のように怖いことを書いていたわけでもないのだが、それでも冷えた。まるで今の自分の生き方を咎められているような気がした。
でももう駄目だ。駄目なんだよ。
心の中で日記の著者に語り掛ける。どんな強権的なやり方を使っても、もう二度と同じ世界には戻らないのだ。私1人がアニマを手放すのでさえ、地獄の苦しみになることは想像に難くない。まして、その他大勢の人が同じようにアニマを手放してくれるかというと答えは当然ノーだ。
部分的に社会が少しだけ悪くなったとしても、もう人はこの世界に慣れて生きていくしかないのだ。たとえ、じりじりと積み重なっていく死亡者を、運の悪い存在だと突き放すような世界だとしてもだ。
アニマをもう一度呼び起こす。胸の痛みがまた来るかもしれないと不安にはなったが、今は危険を冒してでも、幸福感に身をゆだねたい気分だった。アニマのもたらす、脳をドロドロに溶かしていくような感触が再び頭を覆い始める。誰かに咎められているような感覚も、心をチクチク刺してくる罪悪感も羞恥心もなくなっていく。秘かに脳裏で思い描いていた日記の著者の非難がましい視線も消え失せる。寄る波に負けて徐々に崩れていく砂の城のように、そもそもそんなものはなかったのだと思わせるぐらいに存在を失っていく。恐らくもうその視線に悩まされることはないだろう。
そうさ。私はこの生活を選んだのだ。だるくて、しんどくて、窮屈だった生活を捨てて、アニマを使えば幸福をすぐにでも得られる生活。誰だって、普通、そっちを選ぶだろう? それがもたらすデメリットがいつか自分を傷つけるとしてもだ。胸がちくりと痛んだ。その痛みが何に起因しているのかは自分でも判断がつかなかった。
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