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5 八津山の代理人 ②
祠では普通の猿よりは少々大きめのニホンザルが祠の足下で軽く飛び跳ねていた。幸紘が眼鏡をずらすと飛行するタイプの精があたりを漂っている。どうやら狒々は地面を這うタイプの精を食い尽くして、こんどはそちらを狙っているようだった。体に残った傷が痛むのか、それほど高くも飛べていない。着地するときにバランスを崩して地面に顔をぶつける。黒い眼帯を点けた左目の影響もあって、遠近感もとれていなさそうだった。
「調子はどうだ?」
幸紘が声をかける。狒々は幸紘の顔を見るとざざざ、と後ずさりして玉砂利の上で蹲るように頭を垂れた。
「頭を上げろよ。取って食おうってわけじゃないんだ。傷は痛むか?」
狒々が顔を上げる。顔面に加奈子の拳の形が赤い火傷の痕として残っていた。
「痛々しいな」
「おで……あんな怖ぇ女……嫁にしようとしてたなんて」
「うん。俺たちもお前がうちに白羽の矢を立てたって聞いた時は全員で気の毒に思ったものだよ」
「……尻に敷かれるところだったな」
「その程度の認識でトラウマにまでなってないなら幸いだ」
幸紘は手にした青いブリキ缶を開く。市販のハンドクリームが入っていたものだ。蓋を開けると白い軟膏ではなく、アロエのようなジェルが入っている。神様によると火傷によく効く苔で作る火傷薬なのだという。冷感で打撲傷にも効くとのことだった。動物病院に連れて行くわけにもいかず困っている幸紘に渡してくれた。それを手に取り、幸紘は狒々の傷に薄く塗ってやった。
「おで、怖くないん?」
「人よりお前達の方が付き合いやすいよ。左目、駄目になったな。見えにくいだろ?」
「これは仕方ね。おでが未熟だで、その報いだ」
「かっこいいよ。眼帯」
「そうけ?」
猿が歯を見せて笑う。その顔は類人猿が威嚇するような猛々しさはなく、人間の小さな子供のように無邪気だった。
「ここはええ。精もいっぱいいるし、飯もくれる」
狒々は幸紘が与えたオニギリを両手で支え、がぶりとかじりつく。口元にいくつか米粒がついた。
「おでがおったところは、なんもなかった」
「どこ?」
「しらねぇ。寒いとこ。おでは爺さんと暮らしてた」
「お爺さん? 仲間は?」
「爺さんは猿じゃねえ。山の神さんだ。人が作った社を塒にしてた。その爺さんの元でお父と仲間とおでは暮らしてた。昔は人間もたくさんおったでよ、そいつらから作物くすねたり、鳥盗んだりして」
「いつの話?」
「しらねぇ。もう今は誰もおらんようになったしな。仲間も人が集落から消える頃にどっか行っちまった」
「お前は行かなかったのか?」
「爺さんの具合が悪うなったからな。けども爺さんは社から出られんで、俺がずっと看病してた。里にもっと人が居れば、爺さんは元気になるだけど、里に人が居ないんで力がでねえんだって言ってた」
「社につけられた名前か、お爺さんを人が呼ぶときの名前か、わかるか?」
「なんだったかなぁ。ヤマガミさんとか言われとった」
「山神神社か。山の中じゃポピュラーな小社だな、確か。爺さんはそこで人の神の名を受けてたんだろう。だから人が居なくなって力を失ったんだ。でもそれだったら人の神の名を捨てて、山津神に戻ってもよかったんじゃないか?」
「よくわらんけど、人間が近くに大きな池を作ったり、道を通したり、どっかから土持ってきたりして、随分精も減ってしまってた」
「開発がすすんで山津神としてのよりどころも心許なくなったわけか」
「爺さんはとうとう逝ってもうて、おで、ひとりぼっちになった。爺さんにはおでが後を継ぐんだって言われて、爺さんの名前と魂もろうたけ、しばらくは社におったけども、寂しいてよ」
「だから仲間を探しに里へ?」
「でもどこにも仲間はおらんかった。それどころか山の外はおでの知ってる里とは全然違ってた。鹿や熊がよう増えて、狸も狐も少のうなっとるし、なにより狼がどこにもおらん」
「狼は今から百二十年程前に絶滅した」
「おでが爺さんやお父と暮らしていた幼ぇ時はおったはずだ。爺さんは強い猿だったけど、あれだけは絶対に逃げろってずっと言ってた。猿は熊には勝てることもあるだども、犬や狼には絶対に勝てねえからって」
「現代の犬なら勝てる相手もいるんじゃないかな。ポメラニアンとか」
幸紘の冗談に、狒々は軽く首を傾げる。幸紘は口元についた米粒をとってやった。
「だけんどおめえは優しい獣だな」
「俺が?」
「んだ」
「俺は獣じゃないよ。それに本当に優しいならお前をここまで痛めつけたりしないだろう」
「そうなんけ? でもその目は狼といっしょやけ」
「言うな。気にしてるんだ」
幸紘はふいっと顔を背けて視線を遠くに向けた。狒々もおにぎりをはぐっと口にして、ぼんやりと手元の白い飯を眺めた。
「おで、爺さんの後さ継いで、人間の姿になれると知ったから、いっぺえ勉強して、いっぺえ練習したで。そっから山降りた。人間の嫁さんをもらって、たくさんたくさん子供を作ろうって思った。そうやって村を作れば、死んだ爺さんも喜ぶし、爺さんの名前を継いだおでの力も強くなる。そうしたらまた精がいっぱいの山に戻せるし、仲間も戻るだろうって、そう思ったから」
「それで淵上に?」
「あちこちの山の神さんから噂をきいた。そうやって山の神に嫁さんをあてがってくれる村があるって」
「はは……」
幸紘は乾いた笑いを見せる。そんな山津神専門の見合いババアみたいな村があってたまるかと素直に思った。
「淵上の日河比売を尋ねろって言われて、おで、ここに来た」
「残念だけどその祭りはうちの主神が三〇〇年ほど前に禁止した。今回それを蒸し返したからお前はボロカスにされたんだ」
「えー……」
狒々はしゅん、と肩を落とすと、手にしたオニギリに小さく口をつけた。
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