1 コイと白羽の矢 ①

1/1
21人が本棚に入れています
本棚に追加
/34ページ

1 コイと白羽の矢 ①

 項をたたく熱いシャワーが心地よく、幸紘の寝起きの体を起こしていく。  幸紘は基本的に夜に風呂へ入る方だ。  工場での埃や脂の汚れや匂いを纏わり付かせたままベッドに入りたくない。特に最近は隣で神様が寝ている。耳だけでなく鼻もいい神様に不快な思いはさせたくなかった。  それに朝風呂に入ると、山がちなこのあたりの気候では、冬などでは職場に着く頃には確実に湯冷めしてしまう。そういう意味では朝風呂に入っても湯冷めの心配をしなくてもいい季節にはなっていた。  昨日まで少々伸びていた癖の強い後ろ髪は、今はすっきりと短く整えられている。昨夜、風呂上りに幸紘が自分で切ろうとしていたら神様が切ると申し出た。言うだけあって幸紘の希望通りに前髪を長めで後ろを項が見える程度で全体的にさっぱりと器用に切りそろえてくれた。神様本人は散髪など全く必要のなさそうな見事な剃髪なので、理容師の免許でも取ったのかと聞いたら、さすがに持っていないという。  神様の嫋やかな指先が髪に触れて項を滑った感触を、皮膚についた毛をふっと息で吹き飛ばされた時のことを思い出して、幸紘の背筋がぶるっと震える。シャワーに頭から叩かれたまま熱い吐息が深くこぼれた。  幸紘は指先で唇に触れる。いつも目覚めたら忘れてしまうはずの夢は、今日に限って生々しく残っていた。  夢の中で交わした誰かの冷たい唇は腰が抜けそうなほど巧みで、肉厚は薄いが桜桃のように可愛らしく、唇とは対照的に肉厚で少し短めな舌は青臭いクロレラの味がした。相手の顔ははっきり見えなかったが、甘いようで清々しい匂いや、腕の中に抱きしめた感触で、幸紘には誰だかわかっていた。  わかっていたから目覚めたときの罪悪感は半端ない。隣に神様があどけない寝顔のまま安心しきって目覚めもしないからなおさらだ。  もう一度、今度は深く長ーいため息が出てしまう。目を閉じると暗闇の中で『清』の気を直接やりとりした感覚が夢の中の光景とオーバーラップして思い起こされた。 「あれは…………ちがう」  自分に言い聞かせる。あれはキスなんかじゃない。あれは弱った生命力を回復させる「手段」だった。わかっている。なのに瞼の裏の暗闇の中で神様は、池の縁で組んだ両腕の上に形のよい頭を気だるげにしなだれかけて、しどけなく着こなした単衣の合わせから衣の白よりも透き通ったように見える滑らかな首筋と鎖骨を露わにして、悪魔のように幸紘を堕落へ誘う。隣で眠る無防備な姿を可愛らしいと思う一方で、誘惑に流されたまま神様の言う「変な触り方」で体中を隈なく触れたくてしかたなくなる。  彼への想いは崇拝でなくてはならない。だって彼は神なのだから。人には手の届かない、別次元にある、高位の存在なのだから。仏師が仏の崇高さに心酔して形を掘るように、幸紘は金の瞳だけが知る神様の美しさを現世に留めようとしている。そのはずなのだから。そう、幸紘は自らに言い聞かせる。 「……なのに……こんな……」  幸紘は強く目を閉じて唇を噛みしめる。体の奥底からあふれる熱を持て余す。ゾクゾクと背骨を駆け巡る狂気に抗って風呂場の壁を拳で何度も静かに叩く。  これは、罪だ。穢れだ。許されるわけがない。  幸紘は薄く目を開けて鳩尾のあたりから腹に手を這わせる。一ヶ月前まではあることすら信じられなかった腹直筋の筋がうっすらと浮き上がっていた。左腕はまだ無理ができないので白く柔らかで日常生活に必要な程度の太さしかなかったが、左手で触れた右の肩から腕は軽く力を入れるだけで堅く張った筋肉の膨らみが浮かび上がった。万年腰痛に悩まされた腰も痛まないし、座りっぱなしの生活で薄く垂れた尻臀も締まってきている。  自分の体が違うものに変わろうとしているのを感じる。外見だけではない。それに伴って中身も、少しずつ……。  神職とは人の恨みを買わず人を恨まず人に奉仕して心穏やかに生きねばならぬ、と瀬織津媛に言われたのに、時折得体の知れないドロドロとした凶暴性が胸を掻きむしりたくなるほどに沸き立ってくる。それがどうにも気持ち悪くて、今朝は頭の先から爪先まで何度も念入りに洗った。それでも幸紘は自身の身に纏わり付く穢れの残り香がどうしようもなく気になった。 「誰? お兄ちゃん? シャワーしてるの?!」  脱衣所の外から加奈子が声をかけてくる。彼女はいつも朝のシャワーを浴びて身支度を整えていた。 「もう出る」  幸紘は慌てて答えるとシャワーを止めて脱衣所に出る。バスタオルを使って手荒く水気を拭った後、多少の濡れ髪は無視して新しい下着と仕事着を身に纏う。  脱衣所を出る前に濡れたバスタオルを、風呂場で洗った下着とともに、洗濯機の中へまとめて投げ入れた。
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!