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1 コイと白羽の矢 ②
風呂場から出た時、ダイニングのコンロの前には光子が居た。
「あら、珍しいわね。あんたが朝風呂なんて。おはよう」
光子は幸紘の濡れ髪を見てすかさず声をかけてきた。
「ご飯食べてく?」
「あ……うん」
幸紘がのろのろとダイニングテーブルの席に着くと、具の少ない味噌汁がいつもよりもそっと幸紘の前に出てくる。理由はすぐにわかった。幸紘の席の前には上等なスウェードや錦張りの台紙がついた写真が三冊ほど置かれていた。これを汚すわけにはいかなかったからだ。
「何これ?」
小さく呟いて幸紘は恐る恐るそれらを丁重に加奈子の席へ移動させる。
「なんだ、今日はこざっぱりしてるじゃないか。朝風呂か? おはよう、幸紘」
白い上衣と紫地に紫の家紋が入った袴姿の浩三が一階の寝室のほうからやってくる。光子は浩三が席に着くと、自分も食事の席に着いた。幸紘にはその顔つきがツンとすましているようでイヤな予感がする。塩っぽい味噌汁が苦みを帯びてきた。
「あんた、付き合ってる子はいないんでしょ?」
ほら来た。
その上居ないこと大前提で聞いてきた。情報源は加奈子だろうとすぐに幸紘は思い至った。
光子は行儀悪く箸先で写真を指し示した。
「だからそれ。探してくれば会うだけ会ってやる、って前に言ったから、お母さん見つけてきた」
「見つけてきた、って……よくこの地域に高齢者以外が居たね」
「まあ、年齢は多少目を瞑んなさい。あんただって選り好みできるような立場じゃないんだから、年下の気立てのいいお嬢さんじゃなきゃだめ、なんて言ってられないでしょ? あんたくらい頼りない男なら、しっかりした年上女房の方がいいわよ。安心しなさい。今は地元を離れてても、みんな長女じゃないから。あとはあんたがうまいことすればこっちに帰ってくれるわよ。なんだったら敷地に新居を建てたっていいんだから」
「うまいことって……」
幸紘は顔を引きつらせて絶句する。今時の「普通」と言われる男性ですら、その「うまいこと」という配偶者との欺しあいや駆け引きができなくて、結局地元を離れたり相手方の養子に入ったりするようなご時世だ。堂々と息子をさして「頼りない」と認めている幸紘に男女の駆け引きを期待する事がまず間違っていた。
幸紘はおそるおそる加奈子の席においやった写真に視線を向ける。これは見合い写真なのだ。問わなくても幸紘は理解した。
「……俺の写真なんて、よくあったね」
幸紘は自分の目が嫌いだったので、ことごとく被写体になる機会から逃げ回っていた。家族写真にすら写ろうとしなかったので、何かあったときに赤の他人から見てこの家は三人家族だったと思われても不思議ではない。成人式記念の写真撮影も部屋に籠城し続けて逃げたからあるわけがない。スマートフォンのカメラで盗撮まがいのことをされるのも嫌で、常に視線を避けて人から距離を置いていた。
ただ誰かが、広報がなんとか……とか言っていたような気もした。その詳細を思い出そうと幸紘は味噌汁を飲み、おにぎりを口にする。仕事上の話はともかく、日常において殊に人が関わってくると幸紘の記憶はひどく曖昧になった。
「ま、とにかく、写真を見て気に入った子が居たら言ってちょうだい。お見合いセッティングしてあげるから。全員却下はなしよ。あんたはそんな贅沢な事言える立場じゃないんですからね」
「まあまあ母さん。まだ資格を取ることもしてないんだ。来年初めから勉強して、資格をとってからでも遅くはない。勉強をしている最中に神職としての人生をともに歩んでくれる可愛らしいお嬢さんが現れないとも限らないじゃないか。そう焦ることもないだろう」
「お父さんはいいわよ。幸紘が自分から継ぐって言い出して望みは叶ったんだから。そうやって余裕ぶって居られるんだわ。でもお嫁さんの件は親が尻を叩かないと、幸紘は自分から決して動かないじゃないですか。うちの神社は主神が女神だから、神職に就く前にお嫁さんもらって子供も作ったほうがいいって、お父さんが私に言ったんですよ」
地獄だ、と実の両親の一切知りたくもなかった閨の事情が垣間見えるけんか腰の会話を目の前で展開されて、幸紘は煮詰まっていく。口にした味噌汁はすでに味らしい味がしなくなっていた。
「いってきまぁ……す」
幸紘はタイミングを見計らって飲みきれない味噌汁をテーブルに置いたまま、そうっと席を立つ。両親はお互いの議論が白熱していて、話題の当事者である息子がリングから降りたことなど、普段から家庭内での存在感が薄すぎるせいもあって気づきもしなかった。
「朝からなんなの? あれ」
幸紘がダイニングを出るときに風呂場から身支度を調えてやってきた加奈子とすれ違う。彼女はダイニングの中の様子を見て幸紘の袖を引いた。
「シラネ」
「夫婦喧嘩なんか何年ぶり?」
「定期的なガス抜きじゃないの? 結局親父が頭下げて終わるよ、今回も」
「あたしがご飯食べにくいじゃない」
「シラネ。じゃな、俺、行くわ」
「うわ、最低だ、この人。ヒトデナシ」
「どうとでも言え。聞き飽きたわ」
玄関で靴を履いて幸紘はさっさと家を出る。その時、表札に白い羽の矢が刺さっていることに、この時は誰も気がついていなかった。
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