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1 コイと白羽の矢 ③
「容姿の変化に触れるのはセクハラだったっけ?」
昼休みの食堂で畑中は幸紘を見て尋ねた。幸紘は自室の冷蔵庫から持ち出したカレーパンとコーヒーを口にして首を傾げた。
「そうなんすか?」
「っていうか、定期的に短くなってるのはなんとなく知ってたけど、今回は綺麗じゃない、髪」
「切ってもらったので」
「いつもは?」
「自分で」
「自分で?!」
「店、嫌いなんすよ。大きな姿見で自分と向き合うじゃないっすか。それが。小さい頃は母に切ってもらってたんすけど、あの人容赦なく前髪を眉上まで切ってくるんで、逃げたっす」
「わかる。母親からすると子供の眉上ぱっつんはかわいくてしかないんだよね」
「器用ならいいんすけど、斜めになってても長さがバラバラでもおしゃれとか言い張りますからね、母は」
「う~ん……それは……困ったね」
「だから前髪だけは一〇歳くらいから自分で切るようになりましたよね」
「後ろは?」
「就職するまではずっと伸ばしっぱなしっす」
「何年くらい?」
「一八までだから八年か。就職してからは自分で切ってました」
「え、結構伸びたんじゃない? 写真ないの? 写真。すごい見てみたいんだけど」
「ないっす。逃げ回ってましたから」
「自撮りは?」
「そういう趣味ないんで」
幸紘は三分の一ほどになったカレーパンを一気に口へ入れてコーヒーで流し込む。畑中はその様子をコーヒーを飲みながら眺めた。
「筋トレ再開した?」
「わかりますか?」
「背筋が変わってきてる。体重は?」
「六五キロっすね」
「体脂肪は」
「あまり変化なし」
「筋肉量は?」
「二五キロくらい?」
「髪、誰に切ってもらったの?」
「友人が」
「あの坊さん?」
「そう」
「本人の髪の毛ないのにねえ」
「そうっすね。でも器用に普通のハサミで切ってくれましたよ」
幸紘はちらっと畑中を見る。彼女は目を皿のようにして幸紘をじっと見つめ、抑揚のない声で尋ねた。
「彼女でも……できた?」
「……それは完全にセクハラっす、畑中さん」
本題はそれか、と気が付いて幸紘は畑中から視線をそらした。
「だって、明らかに色気づいてきてんじゃない。今日は朝から濡れ髪でいい匂いさせちゃってさ。朝帰りかよ、ってみんながざわついてたの知ってる?」
「興味ないっす。大体からして昨日俺が帰ったの十時過ぎてたんすよ。工場で機械のメンテ頼まれたから。頼んだ奴は先に帰っちまうし。制服も油でドロドロ。油だらけの体のまま、こんな街灯がないと伸ばした指先も見えないような田舎で、アフターにどこへ行くっていうんすか。風呂と着替えと睡眠時間を確保して、翌朝七時までに出勤するんだったら自宅一択っすよ」
「でも珍しいよね。朝シャンとか。割と寝癖とか残したまま出勤とかあるじゃない?」
「昨日の夜にも入りました。でも髪から油の匂いが取れなかったんすよ。髪切るときに指摘されまして」
「筋トレは?」
「巡見する体力付けるためっす。あと、骨を早く固めたかったら少しずつ負荷をかけた方がいいらしいんで」
「いいよ、言い訳しなくたって。誰にも言わないし」
「俺が家業継いで辞めるって噂をまことしやかに広めた口で言いますか?」
「それは周りに仕事をさせるための方便でね」
「まあいいっすけどね。イマジナリー彼女作ってもらった方が」
それが巡り巡って両親の耳に入ればいいと幸紘は思う。そうすれば少なくとも今朝がたテーブルの上に置かれた見合い写真の中身と会う必要がなくなる。母からのセリフは「彼女いないの?」から「その彼女とはいつ会わせてくれるの?」となるに違いないが「彼女いないんでしょ」と次々候補を持ってこられるよりましだった。前者の場合は頃合いを見て適当にイマジナリー彼女とは別れたことにすればいい。
しかし畑中は協力してくれなかった。
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