1 コイと白羽の矢 ④

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1 コイと白羽の矢 ④

 会社を出ると深い夜の闇の中で色の濃い月が上っていた。前にウルフムーンの話を聞いたせいか、月を見ると八津山に消えていった黄金色の毛皮を持った狼が思い浮かんだ。心なしか山のどこかであの金色の狼が鳴いているような気がしてくる。  日本の狼は絶滅した、と加奈子はいった。調べてみれば一八七〇年代には明治政府の国土開拓の過程で北海道ではほぼ蝦夷(えぞ)狼が絶滅し、本土にいた日本狼も一九〇〇年代の初めに奈良で最後の一頭が殺されて絶滅したとある。  だがあれは、狼だった。都市伝説まがいではあるけれども未だに日本の山奥には狼が生存しているという噂もある。もしかすると神様が守る淵上の山々のどこかにはまだ生きているのかもしれない。あの狼の現実感が幸紘にそう思わせた。  車は神社の駐車場へ入る。口を開けたガレージの中へ頭から車を停めて、幸紘はエンジンを切った。車から出ると遠く人家のある平地の方で赤く点滅する光を見た。警察か救急車か消防か、いずれにしても緊急車両が出動していた。街灯が少ない水田地が広がる土地なので、非日常の光はよく目立った。  大きな月に白く浮かび上がる境内を抜けて自宅に向かう。玄関の扉に二つある鍵穴をそれぞれ解除して幸紘はドアを開ける。ただいま、とも言わず、リビングダイニングを抜けてまっすぐに自分の部屋に上がってしまおうとしたが、リビングで浩三が難しい顔をして座っていたので足を止めた。 「珍しいじゃない。まだ寝る支度もしてないなんて」  浩三が顔を上げる。いつも比較的柔和な笑顔の浩三の顔が、険しく皺を寄せていた。 「これから警察がくるからな」 「警察?」  幸紘は先ほどの暗闇に浮かび上がる赤色灯の点滅を思い出す。あれはパトカーの光だったのだ。  ソファーに座る浩三の前には数本の真新しい白木(しらき)の矢があった。どれも羽が白かった。 「なんで破魔矢(はまや)?」  と幸紘は尋ねたが、破魔矢にしては装飾が少ない。祝い物であるそれは淵上神社に限って言えば通常白と赤の装飾がされ、鈴やお守りがついている。それに(やじり)は尖らせない。魔を払うのに人を傷つけるような装飾は必要ないからだ。だが一つも装飾がなされていないそれらの矢の先は何かを貫く意図をもって鋭利に尖っていた。  幸紘は眼鏡をずらす。白羽の矢からかすかに瘴気のようなものを感じた。 「幸紘、これは破魔矢じゃない。白羽の矢というやつだ」 「大当たりとか、大抜擢みたいな意味合いの?」 「お前たち若い世代の間では肯定的な意味合いに代わっているが、もともと語源は人身御供(ひとみごくう)の伝説だ」 「人身御供……奥山奇譚にもそういう話があったね」  幸紘は少し前から読み進めている奥山奇譚の中身を思い出す。 「下平郷(しもひらごう)の長者の娘だったっけ?」 「読んだのか?」 「読めって言うから。神社継ぐんだったら、知っとくべきなんだろ?」  下平郷というのは今はもう人がほとんど住まない旧清沢村にあった地域だ。その長者の娘が奥山奇譚の十一段にあった。 ――――――――十一:下平郷の長者の娘、片目、片端により役務に耐え難きなり。一三の年、満月の世に白羽の矢立ちて山津神に嫁がんとす。艶やかに着飾り、贅でもてなされ、闇深き夜に淵の洞へ消えたり。  奥山奇譚にはこうやって時々人が亡くなる話も出てくる。それが嫌で小さい頃は途中で読むのをやめていた。 「まあ、下平郷の娘の話は江戸時代よりも前の話だってことだし、お前の祖父さんのころには完全に迷信になっていた話で、人身御供なんて俺も見たことはない風習だ。だがこのあたりにもそういう風習はあったんだろうな。神の生贄(いけにえ)として差し出される少女の家の屋根には目印として白羽の矢が立てられるって話も、一眼一足(いちがんいっそく)の存在を神に繋がる超人に仕立てて供物に捧げる話も、全国的には珍しくない。だからといっていたずらにしてもたちが悪すぎる。こんなものを人の家の表札に刺す奴がいるとはな」  浩三は矢の一本を手にしてぶんぶんと振り回した。 「うちの表札?」 「うちだけじゃない。母さんの知り合いが何人か今日うちに来ててな。その時にこれを持ってこられて相談を受けたんだよ」 「調べてみたらうちも被害にあってた、と?」 「びっくりしたよ。玄関先にすこーんと刺さっていたからな。お前は気がついてたか?」 「家を出るときにいちいち表札確認しなくない?」 「それもそうだ。それで俺が代表で警察に連絡した。強盗犯の可能性もあるからな。奴らは目星をつけた家に印をつけることがあるそうだ」 「印にしちゃ目立ちすぎだけどね」 「いたずらや、変質者の類いは逆に目立たせるそうだ。今は被害状況を調べてくれてる。状況を報告してくれるらしいから、待っているんだ」 「神社の賽銭箱、夜は撤収したら?」 「それはいつも中身を回収している。大丈夫だ」 「あ、そう」  相変わらず浩三のがめつい金の管理能力に幸紘は肩をすくめた。  幸紘は白羽の矢を指さす。 「それ、どうするの?」 「犯人の手掛かりになるものが出るかもしれないから、これは証拠品として提出する」  チャイムが鳴った。噂をすればだろう。浩三がソファーから立ち上がって玄関へ向かった。その間に幸紘は浩三が振り回した一本を手に取ると、そのまま階段を上っていった。
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