1 コイと白羽の矢 ④

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「馬鹿?」 「日河比売ってやつだ」 「瑞淵八幡宮の配祠神?」 「八幡の爺さんに聞いたか」 「早瀬川の主だとか」 「そいつが満月の夜に生け贄の娘の家の軒下に白羽の矢を打ち、新月に生け贄に捧げるなんて『まじない』を儀式化して、神嫁ぎって現象にはっきりと形を与えちまった」 「あ……」  幸紘は先ほど浩三と話した時に思い出した奥山奇譚の一一段を見た。 「……下平郷の長者の娘か」 「日河比売の生み出した儀式の一番最初の犠牲者だ。俺がきいた話では、あいつは満月の晩に白羽の矢を長者の家に射して、気味悪がる家の者の前に旅の白拍子(しらびょうし)風情で現れ、その家に一眼一足の娘がいるだろうと言い当てたらしい」 「言い当てるも何も、早瀬川の主っていう土地神でしょう。この土地の事情を知らないはずはない」 「そうさ」  神様は目を険しく細めた。  戦乱、貧困、そして強盗……。生きるために人は理性を捨てた。乱世と呼ぶにふさわしい時代だった。心優しきものは虐げられて生きる気力を失い、田畑も山野も荒れていた。秩序の乱れを利用して里に下りてくる山津神も多かった。  そんな時代に生まれた下平郷の長者の娘は母体の時から栄養状態が悪く、生まれてからも体は弱かった。なんとか十まで成長しても、その間にいくつも流行り病であちこちをダメにして、十五を待たずして寝たきりだった。親に愛情はあったであろうが、厳しい時代だ。長者といえどそんな子供を育てていく余力はなく、遠からず亡くなる子を見限らずにはいられない母親には、次の子が宿っていた。 「今ほど教育や医療が行き届いてるわけじゃない。十人いた子供が一人成人できたら御の字なんてザラだよ。経験則だけで生き残ってるような時代だ。知力もなく、生産力もなく、武力もない。なんの力もない人間がまともな精神でいられる方が難しい時代だった」 「だから旅の巫女の口車に乗ってしまった。一眼一足の存在を神に繋がる特徴だとでもおだてられて」 「世情が不安になると新興宗教が流行る、みたいな話だ。下平郷の長者の娘が死んで、俺は天啓がおりて神として目覚めた。里はもうひどい状態だ。人がいなくなればもっと無秩序になる。その勢力が他の里や人を襲う前に、俺は守るために働いた。程なくしてこのあたり一帯は平和になり、新しい殿様がやってきて土地を治めて生活が平穏になった」 「よかったじゃないですか?」 「よくはなかった。人は弱い生き物だ。自分の力では乗り越えられない程の辛いことがあると、過去に偶然起こった奇跡や迷信を頼るようになる。生きていれば避けられないような災害は必ず起こる」 「神様では助けられませんか?」 「俺の力は広範囲には及ばない。この淵上に限られる。だが災厄の本流は大きな波となって襲ってくるものだ。飢饉にしても、戦争にしてもな。力が及ばないことはある。そうなったときに、心が弱いものほどあのときの娘と同じものを捧げればやり過ごせると縋ってしまう」 「まさか、日河比売の狙いはそっちですか?」 「じゃねえかな。あいつはもともと里側ではなく山側の神だから。俺が山津神とタイマンはってたから里が平穏になったのは確かだけど、やろうと思えば山津神が総出で襲ってくることもできたはずだ。それをあいつはさせなかった」 「意図的にそうした可能性が?」 「平穏を享受したときの優しい幻想を捨てきれないやつほど、失われた落差に心を壊して狂気に囚われやすい。その証拠に下平郷の娘の件の後は、ほぼ神嫁ぎは人間の手で行われた。貧困と苦痛と不安と恐怖に狂った人々は最初は少しでも一眼一足に近い者を、それがいなければ少しでも他と違う者を、それすら居なくなれば意図的にそれに近い者を勝手に「仕立て」始めるようになった」 「日河比売は最初の儀式で見本を提示して、人に人を殺させるお膳立てをしたってことか」 「やり方が狡猾なんだよ、あのやろう。奴が前例を作ってから、白羽の矢ってのは、満月の夜に神嫁ぎの目星をつけられた女の家に打ち込まれるようになったんだ。ここの娘を山津神の神の嫁にしますよ、ってな。そうして新月の夜に浚われた」  神様は目を細めて淡々と言う。人が好きな神様の前で、悪心の呪いに踊らされたとはいえ、人が人を殺す姿を見る辛さを幸紘は想う。彼の静けさが逆に幸紘には痛々しく感じられた。 「その矢がうちに打ち込まれたってことは、加奈子を嫁にしようとしてるってことですか?」 「だから物好きだって言ったんだ」  神様はふっと顔から緊張を解いて軽く息を吐く。 「でも人間がやるんだったら、まあ、加奈子は外見的にはかわいい部類らしいし、狙うかもしれませんね」 「人間だったらな。だが今探った限りでは、この矢からは人の匂いがしない。むしろ山の匂いがする。その因習を何らかの手立てで知って踏襲し、本気で嫁探しをしてる山津神が現れたんだ」 「そりゃあ…………物好きな」 「まったくだ。あいつ、最近俺らに付き合って無意識に修練積んでるから、中途半端な奴らだと大火傷食らうことになるのに」 「猫かぶってますけど物理的にもかなり手強いですしね」 「次の新月いつだ?」 「来月の八日の夜ですね」 「じゃあそれまでに手を打たないと」 「だとしたら骨ですよ。うちこまれたの、うちだけじゃないですからね。その写真のお嬢さんの親がそろって持ってきたって言うんですから」  幸紘は錦や上等な布で彩られた見合い写真を指さす。神様は肩をすくめた。 「手当たり次第だな。さすがに淵上の山津神でそこまで節操のないことしたやついないぜ。ここいらに住んでれば普段から物色してるはずだしな」 「加奈子の特殊性を知らないってことも含めて、このあたりの山津神じゃないのでは?」 「かもな。知ってたら俺は除外するね。触れることもできないような嫁をどうすんだって話だろ」 「俺は知らなくても除外しますけどね。幸いその中に釣書(つりがき)があるんで、どこの誰かはすぐにわかりますが」 「釣書?」  首をかしげる神様に幸紘は神様が開いていた写真の上にあったクリアファイルの中に入れられた文字ばかりの紙を指さした。
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