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彼女は媚薬
「おかえり」
「ただいま」
ハナが帰ってきた。行く前よりはすっきりした顔をしているけど、どうだったのかな。笑顔で帰ってきてくれたからそれでいいか。
「ごめんね、迎えに来てもらって。仕事あるんでしょう? 今夜も」
「うん。新人が入ったから」
彼女の荷物をトランクに乗せて、車を出した。
「そうなんだ、良い人?」
「よく働く人で助かってる」
「良かったね」
「あと、それに伴ってチーフになった」
「え? おめでとう! 昇進! お祝いしようね」
そう言ったハナの顔が見たくて視線を送った。自分が見たものが見間違いではないかと思い、もう一度見る。
半袖で隠れるか隠れないかの位置、二の腕の内側に、赤い跡がある。
間違いない。
信号が青に変わり、僕は正面に向き直りアクセルを踏む。
ああ、君は彼と寝てきたのか。だからこの暑いのに首にスカーフを巻いてるんだね。それで、僕の昇進祝い? 彼女の事がわからなくなる。
「明日、休みなんだ。ハナはいつまで休暇なの?」
「私も明日まで」
そろそろはっきりさせた方がいいんだろうな。新店の店長になったら、プライベートの問題を考える暇など無いだろう。
「お土産、僕の部屋まで持ってきてくれる?」
「……うん。何時に行けばいい?」
「夕方四時ぐらいかな。一緒に夕食作ろう」
アキトシに送ってもらった日はもう病院は閉まっている時間で、翌日の午前中に、私はすぐ最寄りの産婦人科へ向かった。
レイプはされてないか、とか今までの妊娠中絶経験は、とかの問診があった。そうだよね。レイプ被害者の人が来る可能性もあるものね。
避妊を失敗しました、としか事情を詳しくは話さなかったけれど、医師はこう言った。
「恋人間でも夫婦間でも望まない避妊なしの性交はレイプです」
テルヤとのそれは、言葉にすればこうなるのか。いつもいつも、強引な人。
「一週間前後で出血があると思いますが心配はありません。三週間後に妊娠していないかの確認をしますので受診してください」
すぐに薬は処方された。
「お大事に。次回の受診までに何か心配なことがあったら、いつでもいらしてくださいね」
医師の側についていた背の高いショートカットの看護師さんが優しかった。
薬を飲んだのはいいけれど、しばらくして頭痛が襲ってきた。副作用があるって言ってたな。
こんな気持ちでいることも、テルヤは知らない。
あの人は私にとって何の意味があって現れたんだろう。一緒にいて幸せだったのは一瞬だった気がする。近くにいたら混乱するばかり。もし普通に側にいられたら、こんな風になってなかった?
涙が溢れてくる。情緒不安定になるのも副作用なのかな。アルパカぬいぐるみを抱きしめながらソファにもたれた。
スマホが震えた。
”ライブどうだった? ハナが見てくれてると思ったら頑張れたよ”
テルヤからのメッセージ。
悲しくてたまらなくなる。私がどういう思いをしているか全く考えてないんだね。
”アフターピルを処方してもらうために、あれからすぐ帰りました。だから見れなかったけど、今日のライブも頑張ってね”
既読はすぐついたけど、その後に返信が来たのは、私がアキトシの家へ出かける時間だった。
”ごめん。身体は大丈夫?”
私は返信をしなかった。
バスに乗りながら思う。アキトシに何て言えばいいんだろう。
妊娠してないことが確実になって、この胸に散った赤い跡が無くなってから返事したいな。今のまま返事するのは無理。それまでに気持ちをきちんと整理しなくちゃ。
彼のために買った韓国のお土産が重たく感じる。
アキトシの部屋の前に着いてしまった。深呼吸して、呼び鈴を押す。
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