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僕の部屋の呼び鈴を押そうとするハナを見た。昨日とは打って変わってうつむいて暗い表情をしている。何かあった時の顏だ。
「ハナ」
声を掛けると、ぎこちない笑顔。
「……アキトシ、来るの早かったかな」
「そんなことないよ、僕がちょっと出てただけ」
部屋の鍵を開けて彼女を先に玄関に入れた。カチャン、とドアが閉まる音がした時に、何故か僕の理性が途切れた。
「ハナ、会いたかった」
靴も脱がずに狭い玄関で彼女を抱きしめた。
「アキ、トシ……」
腕の中から困ったような声が聞こえるけれど、抵抗する様子は感じなかった。ハナはそんな気力すらなかっただけだったのに。
彼に抱かれて帰ってきたと思うだけで、堪えることが難しい衝動が湧き出した。腰に腕を回し頭の後ろを押さえて、逃げられないようにして僕は彼女に口づけた。
深いキスをした時にわかった。
テルヤさんがハナを離したくない訳が。
これを、味わっていたのか、彼は。
誰とも違う、味が甘いのか? それだけじゃなくて……酔いそうだ。お酒が好きな彼女は、彼女自身が媚薬みたいなものなのか。
でも味わわないとそれは判らない。
ジワリジワリと彼女の甘い液体が僕の舌を痺れさせる。
ハナに昔聞いた話を思い出す。最初の彼氏が、二十歳そこそこの彼女と婚約した話。何故そんな若いうちから婚約なんてしたんだ、と思っていたが、これで理解できた。
婚約者の彼は正しかった。自分のものにしてしまわないと、危険だからだ。彼女の媚薬を味わった男はきっとみんなおかしくなってしまう。一片だけ残った理性を振り絞って、僕は唇を離した。
「アキトシもなの……?」
悲しそうにハナが呟く。
「何、が……?」
「目が酔ったみたいに、なるの……」
「それは多分……」
君のせいなんだよ、と言いたかったけど、それは止めた。
「コーヒー淹れるよ。お菓子買ってきてくれたんだろ?」
酒に酔うのは慣れてるけど、女の子の甘い舌や唾液に酔うなんて初めてだ。頭を振りながら彼女の酔いを醒まそうとした。
コーヒーを持って行く時に、彼女を見るだけで体の中に衝動が起きる。
「……アキトシ、お酒飲んでる?」
「いや。まだだよ、買い物行くし」
「……そう。コーヒーありがとう。お菓子開けたから食べよう?」
ハナが僕を見るのに位置的に上目遣いになる。ただそれだけなのに、気にも留めなかった表情やしぐさの一つ一つが僕に彼女を欲しがらせる。目をそらしてお菓子を摘まんだ。
「これ美味しいね」
僕が食べたのは甘辛いお菓子だった。
いつもなら、この味はどのお酒に合うな、とか考えたり、使ってある材料のウンチクを言ってみたりするが、全くダメだ。身体の全神経が彼女に集中してしまっている。
あれもこれも、美味しいね、と言いながら食べるのだが全くもって酔いが引かない。コーヒーも濃いめに淹れたのに。
「飲んだら買い物行こうか……」
外に出ないといけない。人の目がないと。僕の理性が持たない。
「アキトシごめん、少しゆっくりしてからでいい?」
よく見ると顔色が悪い。
「大丈夫か? 具合悪い?」
「うん、少しだけ頭痛くて」
「旅行で疲れたかな?」
「そうかも」
「横になる?」
「うん、少し……。このままソファ借りるね」
ハナが2シーターのグリーンのソファに身体をあずける。
「ベッド使いなよ。ちゃんと横になって寝たら」
いつもの僕なら絶対に言わないセリフ。ハナをベッドまで連れて行った。彼女を僕はどうするつもりなんだ。
「買い物は僕が行ってくるから、少し寝てて。何が食べたい?」
「うん。ありがと。暑い季節だけど、あったかいのがいいな」
「わかった。スープにしようか」
僕はそう言って、さっさと立ち上がった。ここにいたら何をするかわからない。
「……アキトシ」
ハナが僕の指先を掴んで引き留めた。
後にしてくれ、何でそんなことをするんだ。どれだけ僕が堪えてると思ってる……。
それでも、気づかないふりをしてその手を振り切って行くことができない僕は、息を止めたままゆっくり振り返って、ベッドに横になっている彼女を見た。
「ありがと……」
微笑んだハナと目が合った瞬間、僕は媚薬の酔いに負けた。
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