最後のキス

1/4
前へ
/64ページ
次へ

最後のキス

 仕事は順調。休み明けからは新しく任された仕事も増えて、やりがいも大きくなった。だから、このまま頑張りたい。  そう思いながら、午前休を取り産婦人科の門をくぐった。  妊娠を確認するのは尿検査だった。提出してからしばらくすると診察室に呼ばれる。 「初診時にご説明しましたが、アフターピルは72時間以内に服用すれば85%から95%の避妊効果があるとされています。が、100%ではありません」 背中が冷えてくる。 「尿検査の結果、妊娠反応が出ました。ただし、偽陽性の可能性もありますし、正常な妊娠かの確認も必要です。今後どうされるか考えるお時間も必要でしょうから、また三週間後にお越しください」  医師の言葉が、遠くぼんやりとしか聞こえない。席から立てずにいると、看護師さんがこちらで休んでいかれてください、と体を支えて相談室と書かれた隣の部屋に連れて行ってくれた。 「まだ時間はあります。じっくり考えられてくださいね」  静かで優しいその声を聞いたような気がして、看護師さんの顔を見た。 「あ……チヒロさん?!」  彼女は人差し指を口に当ててシーっとするしぐさをした。 「私、もともと看護師なんです。今は掛け持ちしてて。誰にも言うことはありませんから、安心してください」  いつの間にか零れていた涙を拭くようにティッシュを渡される。 「ハナさんの決断がどちらでも正解です。だからゆっくり考えてください」  ナース姿のチヒロさんに優しく背中をさすられながら、頭の中が真っ白になったまま、私はティッシュを涙が止まらない目に押し当てた。  その夜、私は迷ったけどアキトシのバーに行った。独りで泣いていてもどうにもならないと思って。  あれからまた一度だけ彼に抱かれた。彼の腕の中はとても安心するから。 「元気ないな。どうかした?」  アキトシはすぐ私の事に気づいてくれる。嬉しいけど隠し事もできない。 「じゃあ今日の最初の一杯は僕のおごり。元気出して」 と出てきたのは私の大好きなウイスキーのロックだった。  妊娠してるのに飲んでいいのかな、と一瞬ためらう。でも一口飲んでそれを振り切った。 「アキトシさん、ハナさんの顔色良くないから、あんまり飲ませないでくださいよ」  チヒロさんがアキトシにそんなことを言う。  気にしてくれてるんだな。アキトシがドリンクを作りに行っている間にチヒロさんが来た。 「ハナさん、本当に誰にも言わないから安心してくださいね。掛け持ちでもプロの端くれなので。何か心配になったら連絡ください。あと、これもう少しだけ薄めさせてくださいね。できればアルコールは、飲まない方がいいので」  こっそりとそう言って、ロックグラスに水と氷を入れ、メッセージのIDのメモを渡された。 「チヒロさん、ありがとう」  ニッコリ笑う彼女は看護師の時とは違ってとてもイケメンで、その違いに思わずフフっと笑いが漏れた。女の子にイケメンって言っていいのかわからないけど、彼女はそういう感じ。カッコいいもの。 「全然ナース姿の時と違うね」 「そうですよ、別の仕事ですもん。でもどっちかというと、今の方が素に近いかな」 「そうなんだ」  呼ばれたチヒロさんは笑顔でではまた後で、とオーダーを取りに行った。いつも私はこの場所に助けられてるな……。  スマホを出してチヒロさんにメッセージを送った。 ”ハナです。よろしくね”  こちらこそよろしく、とかわいいヒヨコのスタンプが送られて来た。
/64ページ

最初のコメントを投稿しよう!

50人が本棚に入れています
本棚に追加