50人が本棚に入れています
本棚に追加
最後のキス
仕事は順調。休み明けからは新しく任された仕事も増えて、やりがいも大きくなった。だから、このまま頑張りたい。
そう思いながら、午前休を取り産婦人科の門をくぐった。
妊娠を確認するのは尿検査だった。提出してからしばらくすると診察室に呼ばれる。
「初診時にご説明しましたが、アフターピルは72時間以内に服用すれば85%から95%の避妊効果があるとされています。が、100%ではありません」
背中が冷えてくる。
「尿検査の結果、妊娠反応が出ました。ただし、偽陽性の可能性もありますし、正常な妊娠かの確認も必要です。今後どうされるか考えるお時間も必要でしょうから、また三週間後にお越しください」
医師の言葉が、遠くぼんやりとしか聞こえない。席から立てずにいると、看護師さんがこちらで休んでいかれてください、と体を支えて相談室と書かれた隣の部屋に連れて行ってくれた。
「まだ時間はあります。じっくり考えられてくださいね」
静かで優しいその声を聞いたような気がして、看護師さんの顔を見た。
「あ……チヒロさん?!」
彼女は人差し指を口に当ててシーっとするしぐさをした。
「私、もともと看護師なんです。今は掛け持ちしてて。誰にも言うことはありませんから、安心してください」
いつの間にか零れていた涙を拭くようにティッシュを渡される。
「ハナさんの決断がどちらでも正解です。だからゆっくり考えてください」
ナース姿のチヒロさんに優しく背中をさすられながら、頭の中が真っ白になったまま、私はティッシュを涙が止まらない目に押し当てた。
その夜、私は迷ったけどアキトシのバーに行った。独りで泣いていてもどうにもならないと思って。
あれからまた一度だけ彼に抱かれた。彼の腕の中はとても安心するから。
「元気ないな。どうかした?」
アキトシはすぐ私の事に気づいてくれる。嬉しいけど隠し事もできない。
「じゃあ今日の最初の一杯は僕のおごり。元気出して」
と出てきたのは私の大好きなウイスキーのロックだった。
妊娠してるのに飲んでいいのかな、と一瞬ためらう。でも一口飲んでそれを振り切った。
「アキトシさん、ハナさんの顔色良くないから、あんまり飲ませないでくださいよ」
チヒロさんがアキトシにそんなことを言う。
気にしてくれてるんだな。アキトシがドリンクを作りに行っている間にチヒロさんが来た。
「ハナさん、本当に誰にも言わないから安心してくださいね。掛け持ちでもプロの端くれなので。何か心配になったら連絡ください。あと、これもう少しだけ薄めさせてくださいね。できればアルコールは、飲まない方がいいので」
こっそりとそう言って、ロックグラスに水と氷を入れ、メッセージのIDのメモを渡された。
「チヒロさん、ありがとう」
ニッコリ笑う彼女は看護師の時とは違ってとてもイケメンで、その違いに思わずフフっと笑いが漏れた。女の子にイケメンって言っていいのかわからないけど、彼女はそういう感じ。カッコいいもの。
「全然ナース姿の時と違うね」
「そうですよ、別の仕事ですもん。でもどっちかというと、今の方が素に近いかな」
「そうなんだ」
呼ばれたチヒロさんは笑顔でではまた後で、とオーダーを取りに行った。いつも私はこの場所に助けられてるな……。
スマホを出してチヒロさんにメッセージを送った。
”ハナです。よろしくね”
こちらこそよろしく、とかわいいヒヨコのスタンプが送られて来た。
最初のコメントを投稿しよう!