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「え? ここ……?」
そこはホテルではなくてウイークリーマンションだった。
なるほど……ここならしばらく借りていてもおかしくないもんね。だからカードキーもらえたんだ。私は安心して部屋に入った。
電気を点ける。
テーブルの上に、”ハナ、お帰り!”と書いた紙があった。
まるで、一緒に暮らしてる家族の書き置きみたいに。本当にそうだったらどれだけ嬉しいだろう。一緒にいたあの日々が思い出されて涙ぐんでしまう。
でも、テルヤが来たら言わなきゃ。やっと気持ちが決まったんだから。
冷蔵庫には食材も揃っていて、彼が何を食べたいのかがわかった。
最後の日に食べたフライと、肉じゃがと……。料理を作りあった時のメニュー。私はこれが最後にテルヤに作る料理になるんだな、と思って作り始めた。
あ……食材の匂いが鼻につく。急に気持ちが悪くなってきて、しゃがみ込んだ。これってつわり? 医療ってすごいね。本人が体でわかる前に判明するんだもん。……いや、まだ早いよね? きっと疲れが出ただけ。
ちょっと、休もう。持ってきたお茶を飲んで落ち着いた。
もしも、これがつわりなら、これが安定期になるまでずっと続くの? 妊娠期間と産んでからの毎日を一人でやっていけるんだろうか。初めての事ばかりを一人で。
不安を打ち消すように、スマホで音楽を掛けながら、調理を再開した。
メッセージの受信音が鳴る。
”今夜か、明日会えるかな?”
アキトシからだった。
”予定がはっきりしないから、また私から連絡させて”
”わかった。了解”
溜息が出る。アキトシに話をすれば彼にももう会えなくなる。それも仕方ない。自分がしでかしたことだもんね。肉じゃがを作り終わり、スープもできたのでフライを揚げた。
揚げたてが美味しいけど、いつになるかわからないから、作ってしまおう。もしかしたら来ないかもしれないし。
そう。テルヤをいつも待つばっかり。だけどこういうのももう終わり。
泊まることになるのかなあ。もうバスなくなっちゃう。
時計は22:30を指していた。ここから私の家までは歩いて帰れない。タクシーしかないな。しんどいから家でゆっくり寝たいな。そう思いながら備え付けのベッドでウトウトしていた。
「ハナ、待たせてごめん」
柔らかな低い声が聞こえる。
「ハナ……起きて……」
熱い指が髪を梳くのが夢じゃないことに気付いて目が覚めた。
「あ……テルヤ……ごめん寝てた……」
「いいよ、俺こそ遅くなっちゃってごめん。来てくれてありがと」
疲れきってるはずなのに、彼は優しく笑う。
「そうだ、ご飯食べる?」
「うん! 腹減ってる」
私はバタバタと料理を温め直した。三年…もう四年近く前、私は彼とこうしていた。色々なことを思い出す。
あの別れ方で、また会えただけでも奇跡のような事だと今更気付く。握手会に行けたこと。その後にテルヤが探してくれたこと。
「これが食べたいってなんでわかったの⁈ あーマジ嬉しい!」
テルヤが驚く。
「材料が揃ってたもん」
「ハナは食べないの?」
「うん、あんまり今日食欲無くて。ちょっともらうね。フライは全部あげる!」
「げー! 太るじゃん」
「あんなに動いてたら太りようがないでしょ? 元が痩せてるんだし、食べて食べて!」
懐かしいようなやり取りが嬉しかったけど、これが最後になるんだな。
食後のコーヒーを淹れた。
コーヒーメーカーからお鍋から何でも揃ってるんだね、ウィークリーマンションって。まるでずっと一緒に住んでたみたい。
「何度も言うけど、今日のライブ素晴らしかったよ」
「ありがと」
「だから、辞めないで。みんなのテルヤでいて」
「何言ってんの?」
「辞めちゃだめだよ。ファンのみんな、あなたがいなくなったら悲しむし、私も悲しいもん。テルヤ、私の事が好きなら、仕事続けて。お願い」
テルヤは溜息をついた。
「じゃああと二年は頑張るから、その頃ならちょうど良くない?」
「ううん。もう……会わない」
「おい、何言ってんだよ。そんなの、はいそうですかって言うと思う? お前の方が俺の気持ちわかってないだろ?」
テルヤが立ち上がって私の肩を掴んだ。ベッドに引っ張られてマットレスに押し付けられる。
好きにすればいいよ。
何したってもうお腹に、いるんだもの。
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