1人が本棚に入れています
本棚に追加
【第一話 遭遇】
1
世界は一本の木から成り立っている。
アロンは銃を構えている最中、そのことが頭をよぎった。脈略があるわけでもなく、そういう思想の持ち主でもない。遠い昔に聞いたおとぎ話の内容がふいに思い出されたのだ。極限状態のときこそ、変に冷静になるのだろう。
薄暗い三階建ての建物の中、解体現場のようにがれきが散乱し、月明かりで影を色濃くしていた。足元に注意し、音を立てず、ガスマスクの呼吸音すら抑え込むようにして進んでいった。ただでさえガスマスクで息がしづらいのに、蒸気タンクを背負っているせいで体力が徐々に蝕まれている。まあどれも重要装備だし文句は言えない。
銃口で視線をずらし、突き当たりの部屋まで到達した。ごくりと溜め込んだ唾を飲み込む。やにわに手先の感覚を確かめ、血が通っていることを再認識する。正直ほっとした。自分はまだ生きてる。覚悟を決めてドアノブに手をかけひねると、存外滑らかに動いた。
シュー、ハー。
深呼吸をした流れで一気にドアを開けた。体の血液が沸騰しているのがわかる。銃の先端に取り付けられたライトで部屋の中をくまなく探す。どこにいる、どこから来ると目を鋭くさせるもの、期待に外れて部屋はもぬけのからだった。
「いない……。外に出たのか?」
コロン。
警戒体制を緩めたそのとき、後ろからがれきが転がる音がした。「しまった」の言葉を発する途中で視界に黒点が映った。廊下の奥から勢いよくこちらに向かって走ってくる元人間——“プランター”だ。
花粉症の成れの果てであり、この世界に蔓延る恐怖と腐敗の原因分子。感染者によってさまざまだが、いま叫びながら涎を垂らしているこいつは左半身の大部分が植物化し、自我も失っている。
要するに、ゾンビだ。
噛まれたり、ガスマスクを破壊されたら漏れなくプランターの仲間入り。
カラン。
カラン。
カラン。
その間、約二秒。排出された薬莢が地面に落ちた。静寂に鳴り響いた三発の銃声のあと、どすんと密度のある音が続いた。アロンは銃を構えたままプランターに近づき、軽く爪先で小突いた。反応はなかった。
「こちらアロン。ターゲットを発見した。ああ、もちろん処理は完了している。このあと……了解」
左耳に装着していたインカムで通話が終わると、アロンは銃をおろし、撃ち殺したプランターに近づいた。人間みたいな真っ赤な血を流す代わりに、こいつらは花びらを撒き散らす。倒れ込んだ遺体が花びらで包まれ、皮肉にもまるで棺桶のようだった。
おそらく、この部屋にいた娘の父親だろう。ひびの入った写真立てに映っている三人家族の写真と顔が一致している。娘は先週、母親はおととい、そして今日は父親。人間ではなくなっても、最期の最期まで父親をしていた。娘の部屋に入る不届きものを我が身を挺して。
「安らかに」
唇をぐっと噛み込み、アロンは右手で十字を切った。
まだプランターが残っているかもしれない。先ほどのようなミスがないよう、銃を構え直して建物をあとにした。
2
〈記録〉
発見者:アロンソア
所属:第二特殊戦略班
発見日:五月二十一日
詳細:旧繁華街跡地、腐海での任務後、建物の一階で倒れている少女を発見。外傷あり、脈あり、意識不明、花粉症なし。拠点へ搬送済み。
3
人類の文明は破滅と再生を繰り返してきた。あるときは“水”が、あるときは“電気”が、あるときは“核融合”が主なエネルギー源になっていた。そして現代、人類は新たなエネルギー源として“蒸気”を手に入れた。石炭や木炭を燃やして水を沸騰させ、発生する蒸気を力に変える——というのはもう百年以上前の話。
蒸気機関は進化を遂げ、ダイビングの酸素タンクのような入れ物に、高密度の蒸気を充填することに成功した。この技術のおかげで、蒸気機関車や発電所だけでなく、チェンソーや芝刈り、銃などの性能が飛躍的に上昇した。
そう、お察しのとおり、いまアロンが乗っているバイクも蒸気で動いている。
“さてさて今宵も始まりました。世界で一番スチームなラジオ放送、ボイルボイラーボイリスト——3Bのお時間です。今日のゲストは……”
ゴーグル、ガスマスク、ヘルメットをしたアロンはインカムの周波数を変えて、帰宅までの暇をラジオで潰していた。
夜の“腐海”は手を伸ばした先すら見えるのか怪しく、ヘッドライトが照らす部分だけ、色が存在していた。なにげなしに腐海と言ったが、要するに人体に有毒な花粉——花粉症を引き起こす花粉で満ちている森や地帯の名称だ。全大陸の約八割を占めているといわれ、人類は日々花粉に怯えていた。
人類が大陸を支配していた時代は終末を迎え、現代の支配者となって君臨しているのは、植物だ。適応できたもの、適応できず花粉症を患いプランターになるもの。人類は後者だ。植物に住処を奪われ、細々と暮らしていた。まさに、地球は終末を迎えていた。
“いまそんなことで警察呼ばれんの!? 住みにくい世の中になったねぇ。プランターより怖いよぉ……。はい、牛乳まじ天国さんには番組ステッカーをプレゼントしまーす”
ラジオのおかげか、いつの間にか腐海を抜け、星あかりが見えるようになった。そのまま目線をおろすと、前方にあかりが灯っている建物がある。昔は何かの研究施設だったらしく、電気も蒸気も水道も通っており、生活するうえでなんら問題ない場所だった。現在は彼らの拠点として余生を過ごしている。
“ランドン帝国、第二特殊戦略班駐屯地”
バリケードのロックを解除して、敷地内にバイクを停めた。ここまで来れば花粉の心配はない。ため息まじりにガスマスクの紐を緩めて、バイクに積んでいた蒸気タンクを背負った。我が家になった施設に「ただいま」と告げた。
「ようアロン、遅かったな」
「予想以上に手こずった。ポピーたちのほうは?」
「いつもと変わんないさ。待機して、プランターが来て、倒す。そしてまた待機。残業のせいで、サクラちゃんの番組見逃しちまった……くそったれ!!」
ソファーに座っていたポピーは瓶ビールをぐびっと飲んだ。まだ酔っ払ってるって状態じゃないが、任務の疲れもあって、残りを飲み干したら顔が真っ赤になりそうだった。
その眠たそうな目やゴワゴワの髪の毛を見ていると、やはり安堵する。
「なあポピー」
「なんだね親友くん」
「俺たちの仕事って意味あんのかな。ただひたすらにプランターを倒すだけなんて」
アロンも疲れているようだ。
最近特にそう思うようになった。軍に入ってもう六年は経っている。その間ずっと、プランターを倒して、腐海に潜って、また倒して。バケツに水を入れて、それを捨てる作業を繰り返しているみたいで、終わりが見えない任務に心の底はひどく虚しく、罪悪感と憤怒がちらちらと見え隠れしていた。プランターといえど、元は人間。精神が正常でいるほうが異常とも言える。
だれのために、なんのために、俺は生きているのだとつねに自問自答していた。
「意味なんて決めつけたらこんな仕事やってられんよ。金もらって飯食って寝て、趣味に時間を費やす。最高じゃねぇか。使命感で動いてたらいつか身を滅ぼすぞー。変なもん背負い込んでないで、さっさとタンク置いてこい。あ、ついでにビール取ってきて」
アロンは重たい足取りで備品を置いている部屋に向かった。部屋はすぐ近くにあり、肩にかけていた蒸気タンクをどすんとおろした。体の重荷がなくなって、ふわっと宙に浮きそうだった。この血が通うような感覚を味わってようやく拠点に帰ってきたんだと実感する。
ガスマスクも銃も取っ払って、部屋着と仕事着の中間の着こなしでポピーのいたところへ戻っていった。もちろん冷蔵庫からビールを持って行くのを忘れずに。
さっきまでひとりだったのがふたりに増えていた。シャワーをすでに浴びたらしく、普段ポニーテールの髪を下ろしていた。赤毛の髪は艶を帯びて、見た目だけで香りまで漂ってきた。大事に握られているマグカップの中身はもちろん、ミルクだ。
「あ!! アロン帰ってくんの遅すぎ!! あーしめたんこ心配したんだからね」
「ごめんごめん。全然怪我とかしてないから大丈夫」
「そういう意味じゃなくて……はあ、まあいいけど」
「ナデシコのやつ、さっき任務でとちって機嫌わる——」
「おーまーえーの……せいやろがい!!!」
ナデシコにぶん殴られたポピーはピンボールのように部屋中を跳ね回り、テレビ横の壁に激突した。ちょうど画面には番組のテロップで「ゲームオーバー」と映り、ご満悦の彼女は腹を抱えて笑っていた。
体が小さく、童顔なこともあり、街で見かければお菓子を渡したくなる風貌。にもかかわらず、組織内でいちにを争うほどクレイジーな人物だ。怪我の心配をするならむしろ彼女のほうだ。
何事もなかったようにソファーに座り直して、ほんのり湯気が出てるミルクを口にする。黙ってれば本当に可愛いんだけどなと改めて感心する。手に持ったビールが行き場をなくしたため、ポピーの分をひとまずテーブルにお供えしておいた。
「あ、そうだ、例の彼女、目覚ました?」
「ん? ああアロンが拾ってきた女ね。まだベットでねんねしてるよ」
「もう三日経つよな。点滴だけで大丈夫かな」
「どうでもいいね。そんなに心配なら様子見てくればいいじゃん。どうせああいう女が好きなんでしょ」
後半のセリフが濁ってよくわからず聞き返すが、目を背けて「なんでもない」と言われてしまった。それなら別に追求はしないと、軽く頭を頷かせる。それよりも、ナデシコの言うとおり、彼女の状態を見に行かないといけない。自分が救助したという責任がいまでも続いているからだ。
ふたりに別れを告げ、施設内を進み、彼女が眠っている寝室の前までやってきた。ドアノブに手をかけたそのとき、そういえばまだシャワーを浴びてなかったと、漂う体臭で気がついた。一旦足を止めて思考を巡らす。
「さすがにやばいか」
“ガシャン!”
シャワー室へ向かおうドアノブから手を離したときだった。部屋の中からものが倒れる音が聞こえた。彼女が苦しみもがいているのか、プランターが侵入したのか。いずれにしろよからぬ予感を感じ、部屋に突入した。
手持ちの銃はなく、自前のナイフを構えて臨戦体制を取る。最優先にすべきことは視覚の確保だ。プランターは暗闇でも的確に襲ってくるため、暗いままだとこちらが不利になる。
入り口近くにある電気をつける。
ナイフを強く握る。
全身の神経を尖らせる。
目の前にいた人型の生命体に急接近する。
そして……。
「いややあああああああああああああ!!!!!」
三日間意識を失っていた少女にビンタされる。
4
アロンは正座を強いられていた。
目を覚ました少女は背筋を伸ばしてベッドに腰掛けている。満月を吸収したような艶のあるブロンドの髪、胸の高さほどで切り揃えられていた。
叫び声を聞きつけて四人ほど集まり、アロンを取り囲むように立っていた。夜も遅く、おのおの休息の時間だったのもあって、それを邪魔されたみんなの目線が痛く刺さった。
「なんか言うことあるだろアロン」
「ご、ごめんなさい……」
ナデシコが額に血管を浮き上がらせてナメクジを見る目で見下ろしていた。
「わ、悪いのは私です。またプランターに襲われたかと思って……ごめんなさい」
「あんたが謝る必要ねぇよ。だいたい……」
「まあ落ち着けナデシコ。ひとまず自己紹介だな。こいつはナデシコ、そこで正座しているのがアロン」
色黒で強面の男性が声を発すると、バラついた空気感に統一性が生まれた。ラワーが「それから……」と目線で自己紹介を促す。さっき殴られて依然髪が乱れているポピーが名前を名乗り、続けて隣でタバコを吸っている成人女性がふーっと煙を吐いて「エリカよ」と答えた。
少女は皆の名前を小さく呟く。まだ脳に酸素が回ってないのか、ふわふわと体を揺らしていた。
「で、俺がこいつらの隊長のサンフラワー、“ラワー”って呼んでくれ。帝国軍の第二特殊対策班所属だ」
「わ、私はサンダーソニア、“ソニア”って呼んでください。一応医者やってます。えっと……ここはどこなんですか?」
ソニアの質問にラワーがことのあらましを説明した。アロンが腐海で発見したこと、施設に運んだこと、三日間眠っていたこと。記憶がある部分とない部分が交差して、説明を聞きながら眉間にしわを作っていた。
まるで自分の体を忘れているように、手や足の感触を確かめていた。透き通るほど白い肌と小枝のような手足。華奢とはまさにこのことを言うんだなとひとり納得していた。そんな彼女がなぜ腐海にいたのか、どこからきたのか興味深々だった。
アロンが彼女の手に見惚れながら、浮かんできた疑問を聞こうとしたそのとき、彼女はパタンとベットに倒れ込んだ。
「ごめんなさい。ちょっとなんか……貧血みたいな……」
「目覚めたばっかりだからしょうがない。帰還は一週間後だ。それまでゆっくり休むといい。ナデシコ、なにか飲み物を持ってきてやれ。アロン、彼女のそばで看病しろ」
「えーなんであーしが。てか看病ならエリカにやらせろよ」
「しちめんどくさい」
「だとよ」
ナデシコの合意を得るまえにラワーとエリカが部屋を出ていった。それに続くように、ポピーがナデシコの肩をポンと叩いて「どんまい」と言って出ようとした。余計な一言とはこう言うものなのだろう。本日二度目のナイスパンチが繰り出された。ためた息を一気に吐き出し、足を踏み鳴らしながら部屋を出ていった。
急に静かになった部屋に取り残されたアロンはひとまず不要になった点滴を隅に片付けた。
「ごめんなさい。迷惑かけてしまって」
「謝んなくていいよ」
「で、でも……」
「ナデシコはいつもあんな感じだし、根は優しい子だから問題ない」
丸イスを持ってきて座ってみる。看病しろといわれたが、正直なにすればいいかわからない。顔色は悪そうだがどうこうできるもんじゃない。ソニアとアロンにあいた微妙な距離感が気まずさを増幅させていた。
「あの、アロンさん。助けてくれてありがとうございます」
「い、いやそんな大したことしてない」
ベッドに寝そべっていても彼女の美しさは健在だった。腐りきった森がすぐそこにあるというのに、まるでそれを感じさせない純粋さがあった。別に性格のこといっているわけでなく、彼女の雰囲気ないしオーラがそう思わせた。
「ソニアだっけ? 体大丈夫そう?」
「はい大丈夫です。横になったら楽になりました」
「それはよかった」
「アロンさん、全然部屋に戻ってもいいですよ」
ソニアはまっすぐな目をアロンに向けていた。少々驚いた様子の彼に慌てて補足説明をした。
「そういう意味じゃなくて。邪魔とかそういう。こんな時間ですし、私のために時間を割いてくださるのは申し訳なくて」
「ああ、それなら大丈夫。寝つきが悪くって、いつも寝るのは遅いんだ。まあソニアが帰れっていうなら帰るけど」
「じゃあ……ちょっとだけ、お話しててもいいですか?」
ベッドのシーツを手繰り寄せ、身を隠すように口元まで覆った。若干だが、体が震えている。体がまだ調子悪いのか、ひとりは怖いのか。どちらにせよアロンの返事はイエスのみだった。
まずはお互いのことを話した。年齢、出身地、好きな食べ物とか。当たり障りないもので、当たり障りのない笑みを浮かべて徐々に溶け込もうとしている。初対面かつ異性なこともあって、ぎこちなさは否めない。しかしふたりは言葉を紡ぎ続けた。
「え!? ポピーさんとアロンさんってふたつ上なんですか!! ポピーさんはともかく、アロンさんは同い年かと……」
「あーよく言われる。十八歳に全然見えねぇーって。ソニアと同い年だと……」
「なーに盛り上がってんの」
「噂をすればなんとやら」
不機嫌そうにドアを開けてナデシコが登場した。手にはマグカップが三つ、トレーに乗せて運ばれてきた。湯気がたちのぼり、香りや彼女から察するに中身はホットミルクだ。
足で雑に丸イスを手繰り寄せてテーブルにトレーを置く。なんやかんやいって、彼女も看病に加わるらしい。ソニアと同い年ということをナデシコに話をすると、一瞬嬉しそうに眉を上げたが、はっとなにかを思い出してマグカップで顔面を隠して不貞腐れた。
「こいつと同じだなんて……」
「ナデシコちゃん可愛いから年下かと思いました」
「か、かわ……!!」
「よかったなナデシコ」
「はあ!!??」
言われ慣れてない言葉に赤面するナデシコはマグカップに口をつけてぶくぶくとさせた。ふたりからするとやはりナデシコは年下ないし妹のように見えるらしく、終始暖かい目線を送っていた。
話をぽつりぽつり、ホットミルクが冷めて底に少量残っていた。実際の時間はコップ一杯分だが、体感はもっと長らく語らっていたのだろう。ソニアがふわーっと大きな欠伸をした。頃合いだろうと、アロンは立ち上がって固まった腰を伸ばした。
「ありがとうございます。付き合ってもらって」
「こちらこそ。おやすみ」
ナデシコはなにも言わず、空いたコップを回収した。電気を消して彼女がベッドにいることを再確認して部屋を後にした。
正直少し疲れている自分がいると感じた。それは充実感でもあり、久々に生命をというものに触れて正気を吸い取られた気分だった。
「ナデシコが残るなんて意外だったな」
「あんたがなにかしでかさないように監視してただけだよ。ところであいつ、医者って言ってたよね」
「それがどうかした?」
「んー……いや、なんでもない」
彼女らしからず、歯切れの悪い回答だった。
アロンは追及しようかと思ったが、睡魔がふたりにも襲いかかりその気力を損なわせた。そういえばついさっき帰ってきたばかりだったことを思い出し、しょぼくれた目を擦った。
束の間の賑やかさは木々の葉音でかき消されるほど小さくなり、消灯となった。
とりあえず明日にしよう。気になることや装備の点検、その他もろもろは起きてからにしよう。そう言い聞かせてまぶたをやにわに閉じた。
5
『お兄ちゃん……マコのぶんまで、しっかり生きてね』
『やめろマコ!! マコォォォォ!!! ——』
アロンは、爆ぜるように目を覚ました。
動けばギシギシと音が鳴り、金属パイプとマットのみで形成された簡易的なベッドは、アロンが飛び起きた衝撃で、スプリングが揺れてギシギシと余韻を残していた。
「夢か……」
心臓が早朝早々に激しい運動をしていた。寝間着のシャツからいまにも飛び出しそうな、血管が破裂しそうな、マラソンを走ったあとのように落ち着くまで時間がかかりそうだった。
いまに始まったことじゃない。
厳密にいえば、六年前から、妹が死んだ光景を悪夢としてみる。うなされるのはもう慣れている。それのせいで寝不足になってわーきゃー言うのもいまさらだ。寝起きに金属のスプリングが伸び縮みする音を聞くのはもう習慣になっていた。いつもと同じように、ため息をついて、パタンっと起き上がった上半身を再び倒し、ゆっくり目を閉じる。そして、また、ため息をつくのであった。
このまま寝ていたいと体は訴えている。しかしそれができたら苦労しない。
アロンは、今度は、自分の意思で起き上がった。
目覚めの悪さを引きずって、ひとまず台所へ歩いていった。水を一杯体に補給して、ついでになにか腹にぶち込むのだろう。軍人といえど、腹は減るもんだ。目をかきながら、ゆたゆたと歩いていると、台所から朝の小鳥のような賑やかな声が聞こえてきた。
その賑やかな声は、ソニアだった。
「アロンさん、おはようございます」
「お、おはよう」
ソニアは皿を洗っていた。右腕の包帯が濡れないように、若干ぎこちなくスポンジを使って丁寧に洗っていた。
「ぐっすり眠れましたか?」
「う、うん。てかソニアこそちゃんと寝れた? 起きて大丈夫なの?」
「はい! 私はもうバッチリです。むしろ体を動かしたいくらいです」
それならいいんだけど、と彼女の話をのみこむ。まだぼやけている頭で冷蔵庫に入っている水を取り出す。アロンは喉を潤した。
「それにしても、アロンさん、寝るのがお好きなんですね」
「ん? 別にそうでもないけど。むしろ不眠症で」
アロンは、水を口に含んだ。
「そうなんですか?」
「そうだよ。昨日寝たのが三時で、いまが……」
時計のはりは頂点をさしていた。
「昼の十二時ですよ?」
目からの情報を脳に伝えるまでに、ラグが発生していた。ひと呼吸あってから、口に含んでいた水を吹き出し、時計を二度見した。時計はどう見ても十二時をさしていたし、よく見れば外もすこぶる明るく、太陽が真上にきていた。
普段遅寝早起きのアロンは、寝過ごしても十時を過ぎることはなかった。この時間に起きたのは数年ぶりなのでは、と自分自身驚いていた。その反応が面白かったのか、ソニアはタオルで手を拭きながら、ふふふとそよ風のように笑った。
「みなさん任務に行ったんですけど、間に合いますかね」
「あー今日俺は非番だからそこはいいんだけど、なんだか、すでに一日が終わったような感覚というか……」
「ありますよねそういう感覚。私よく寝坊するんでお気持ちわかります」
水仕事が終わったソニアはぐっと背伸びをして、「早起きもいいですねぇ」と付け加えた。陽光を浴びた髪の毛は空気を含んでふんわりと緩やかな曲線を描いていた。髪の内側に光を取り込んでいるような、光合成をしているような、まさに生きている艶だった。月明かりとはまた別な印象を受け、昼間のまろやかな暖かみがいっそう、そう思わせた。
アロンは棚からバー状の非常食を二本取り出し、片方をソニアにも勧めたが、遠慮された。とりあえずそれをぷケットに押し込み、もう一本を水でふやけた口で頬張った。
「あのさ、まあなんか話しにくかったら全然いいんだけど」
「な、なんでしょう」
「ソニアはさ、どうして腐海にいたの?」
明るい笑顔が、ぎこちなくなった。目を逸らして、なにやら思案する様子が見受けられ、んーっとうなっていた。
「一応俺ら軍所属だからさ、報告書を書かないといけないんだよ。発見当時、ソニアの装備は腐海に潜るには軽装だったし、武器すらなかった。一歩間違えばプランターに襲われて花粉症を発症していたかもしれない。街からは遠いし、どうしてあそこにいたのかなって」
「……わかりました。お話します。ちょっと来てください」
意を決したようで、ソニアは、記憶を掘り出しながら廊下を歩いていった。アロンに向けて話しているのか、独り言なのか、およそその中間あたりの話し方で道のりの時間を潰した。どうやら彼女がいた病室に向かっているらしい。
見せたいものと言われ、アロンは少々考えてみた。しかし、思いつきそうで思いつかなかった。腐海に行く理由なんて軍以外でいうなら、故郷に行くとかだが、あそこの旧繁華街は数年前に腐海に飲み込まれ、最近ようやくプランターが減って開拓ができるかどうかの話だった。あり得なくないが、可能性はかなり低い。ますます謎は深まるばかりだ。
「昨日言ったとおり、私は医者で、三ヶ月前まで北の小さな国で仕事をしていました。父が軍医で、母が看護師。私はその手伝いがおもにです。あー、もうそんなに経つんだ。元気にしてるかなぁ……ああなんでもないです。で、私がここへ来た理由なんですが」
ソニアは、ドアを開けながら話を続けた。
ベッドの横に置かれた肩掛けのカバンをよいしょと持ち上げ、ベッドの上に乗せた。ガサゴソとあさって、なにか取り出した。
それは、フライパンだった。
「フライパン? それが理由??」
「え? ああ! 違いますこれじゃなくて……」
しまい直して、改めて物を取り出した。
それは、防塵用のゴーグルだった。
「え? ああ! 違いますこれじゃなくて……」
同じやり取りを二度おこなった。いや、二度だけじゃない。その後も、スプーン、注射器、コンパス、ランタン、非常食の包装紙、下着など、どうやら関係ないものばかり出てきたらしく、ソニアはカバンの中身をひっくり返した。
ベッドの上に散らかった物をしらみつぶしに探し、空になったはずのカバンをためつすがめつした。ソニアの頭の中で徐々に、紅茶の成分がお湯に滲み出てくるように、決定的な事実が鮮明になった。
ソニアは、明らかに青ざめた顔だった。
「……ない……です」
あまりの蒼白な顔に話を踏み込めないでいると、急に蒸気が吹き出したように、ソニアは取り乱した。頭を抱え、仕切りにどうしようどうしようと連呼している。こんな大声出せるんだと、アロンは呑気な感想に浸っていた。
ソニアは、はっとなにか思い出した。
鬼気迫る顔面でアロンに掴みかかり、言葉と体でぐいぐいと押し迫る。
「私を見つけた場所に落ちてませんでしたか! それとも道中なにか落ちた音がしたとか! まさかあなたがたがあれを奪ったとか!!??」
「おお落ち着いてソニア!」
「落ち着けますかこの状況!!」
アロンは、壁とソニアで板挟みにあっていた。
「ちょっと離れてくれない? まずなにを探しているか言ってくれないと」
「本です!! 私の大切な本です!!」
離れるどころか、さらに迫っていた。もうこれは脅迫されているというか、一種の拷問のようにも思えた。一応ソニアは怪我人だし、女性だし、手で無理やり引き剥がせない。それに彼女の“あれ”がずっと体に当たっている。当人は頭に酸素が行き渡ってなく、気がついてないのだろう。冷静なアロンだけが、いろんな意味で死にそうだった。
アロンは隙をついて、くるりと身を翻して、なんとか板挟み地獄から抜け出した。しかしソニアはまたジリジリとアロンに近づく。よほど大切なものなのだろう。親が殺されたとき並みの殺気を感じる。
「わかったから、わかったから一旦落ち着いて」
「私の……大切な本……!!!」
「もしかすると、君を発見した場所に落ちてるかもだから、探しに行くかい? あの……ソニアさん? なんで無言で近づいてくるの?? あの返事だけでも……返事だけでもぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
6
「あった!」
ソニアは、心から安堵した。
彼女が倒れていた場所付近は、瓦礫が散乱しており、その中から発見された。分厚く、表紙がしっかりと厚紙でできており、見るからに古い書物だった。表紙に描かれているものが、文字なのかただの模様なのか、それすらアロンには見当がつかなかった。
ただひとつ言えるのは、ソニアが、全身の力が抜けるほどその本に寄り添っていることだ。
ここまで無防備だとプランターに襲われたら逃げれるわけもない。アロンは蒸気タンクのメーターを確認し、引き金に指を置いたまま警戒を強めた。
「それがソニアの大切な本?」
「そう。大切な本であり、私のやるべきことなんです」
「やるべきこと?」
ソニアは、瓦礫から立ち上がり、アロンに近づいた。
「私は、プランターの治療薬を探しに来たんです」
プランターの治療薬を探す、彼女は確かにそう言った。
プランターの起源はだれも知らない。ゆえに治療法どころか、感染源である花粉の特定もできていない。感染症対策といえば、常にガスマスクを着用しているだとか、その程度の、ほぼ気休めのものしかない。
だからアロンたちなどの軍隊が、プランターと対峙する。終わることのない、一方的な防衛戦。それが何十年、何百年と続いているのだろう。もはやたまにくる災害のような、一時的にくる流行病のような、人類は“慣れ”によって対応してきた。
アロンが聞き間違えを疑うのも無理はない。
ソニアは「これを見てください」と言い、あるページを開いた。
「ここに書かれている文字は読めませんが、この薬草こそが、プランターの治療薬になるんです。私はこの薬草を探すために国を離れ、旅をしてきました。依然としてまだ見つかっていませんが、この世界のどこかに……」
「ちょちょちょっと待って。一回戻って。え? プランターの治療薬って言った?」
「ええそうです」
至極当然と言わんばかりの、まっすぐな目だった。
詳しく聞いたが、また同じ説明をされて、それが飲み込めないんだと頭が混乱した。アロンは、引き金から指を離していた。ここが腐海であること、プランターに襲われる危険があることを完全に忘れている。
「無理もないです。みんなそういう反応するんで。この本で世界を救えるって信じていたのは私と父だけ。母ですら、おとぎ話だとか想像力豊かねとか、まともに信じてくれませんでした」
「俺もにわかには信じられないけど、もしそれが本当なら、とっくの昔に探索や研究が進んでるんじゃないか?」
「そこは私にもわかりません。でも、このまま一生、プランターに怯える生活をおくるなんて私は嫌です。花粉症に苦しむ人々を、放っておけません」
アロンの心臓が、ドクンと鐘をついた。
その古びた本で世界が救えるとはまだ思っていないが、彼女の考えとアロンの悩みがぴたりと重なった。初めて同じ思考の持ち主と出会い、ソニアという人物像がほんの少し鮮明化されたようだった。
可愛らしい顔して、芯はとても太くまっすぐだった。アロンが言葉を咀嚼していると、はぐらかすようにふふふとソニアが笑った。
「なんてね。忘れてください。これは私が私に課した使命です。どっちにしろひとりで探しに行くんで、そんな神妙な顔しなくていいですよ。あ、もちろん助けてもらったご恩はちゃんとお返しするんで安心してください」
「いや、別に恩とかそういうのはいいんだけど……」
“カタン”
かなりの至近距離で瓦礫ないし小石が転がる音がした。ゆるまっていた緊張感が一気に締め上げられ、腐海にいることを思い出して銃を構えた。ソニアを自分の背中に隠し、耳をそば立てると、コツン、コツン、と足音が聞こえてきた。
引き金に指を乗せる。
照りつけにあった身体が影を伸ばし、それが地面に投影される。徐々に近づき、入り口にそれが現れる。
それはポピーだった。
「あれ、アロンじゃん。こんなところでなにしてんだ?」
まの抜けた声に肩を撫で下ろした。
ことのあらましをポピーに説明し、状況を整理した。ソニアの使命のことも話したが、ポピーはあっさりと嚥下した。
「人々を助けるために薬草探しの旅かぁ。ソニアちゃんは偉いねぇ。成り行きで軍に入った俺とは大違いよ。同い年に思えないわ」
「事実同い年じゃないぞ」
驚愕したポピーはわっと声を出した。アロンが「十六だ」と教えると、「十六……」とアップデートされた情報をゆっくりインストールする。ソニアの使命はすっと受け入れられたのに、こっちのほうは処理が追いつかないようで、まったく彼の感性は少しずれている。
「ナデシコと同い年か……ありえねぇ」
「またぶん殴られるぞ。ていうか、ポピーはなんでここにいるんだ? 今日の任務ここじゃないだろ?」
「ああそれは……」
ポピーはにこやかな顔で建物の外を親指で指差した。
アロンとソニアはヒョイっと顔だけを外に出して確認した。旧繁華街の奥に十、いや、百体にも及ぶプランターが蔓延っていた。さっきポピーが驚いたせいなのかわからないが、場所がばれて、一目散にアロンたちのところへ向かっている。
青ざめるふたりと、照れるように頭をかくポピー。
「連れてきちゃった、てへっ」
「「ふざけんっなっ!!!」」
事態を理解したアロンは銃をおろして、バイクに跨った。ソニアも、今度はなくさないように、しっかりとカバンの中へ本を入れて、アロンに続いて後ろに乗った。
しかしポピーは、その場から動かなかった。
「なにやってんだ! 早くしろ!!」
「いやー、それがさ、バイクの蒸気切らしちゃって。タンクの蒸気も切らしてるし。お前らだけ先逃げてくれ」
「お前、また使いかけのタンク背負っていったろ。だからいつもいつも……ああもう! ソニア、一回降りてくれる?」
アロンはバイクに接続していたタンクのノズルを抜き取り、ポツンと突っ立っている蒸気タンクをポピーに渡した。蒸気の残量は七割程度で、拠点まで帰っても半分以上は残る計算だ。
プランターの群れがすぐそこまでやってきている。
一回断ったポピーだが、アロンの鬼気迫る顔に押し負けてそれを受け取った。ポピーは急いで、後方に倒れているバイクを立てた。ノズルを接続し、蒸気バルブを開けて蒸気を循環させる。車体の右側にあるペダルを強く蹴ってエンジンを始動させた。
ポコポコと音を出して、二台のバイクは旧繁華街を離脱した。しかし、プランターの群れは依然追いかけている。
「アロン! これからどうする? このまま拠点まで戻るのはやばいんじゃないか?」
「そうだな。弾なんて百あるわけないし、あれに立ち向かうのも得策じゃない」
「だな、俺も残弾数ゼロだ。一応手榴弾ならあるけど、これっぽちじゃなぁ」
ひとまず、拠点に行かれないように、旧繁華街を中心にあたりをぐるぐる回っていた。このバイクなら当然逃げ切れるが、あのプランターの群れが拠点に侵入してきたらひとたまりもないだろう。どうにかしてプランターを遠くへやるか、殲滅するか。
蒸気はまだあるとはいえ無限じゃない。夜になればこちらが不利になる。アロンは傾いた太陽を見て残り時間をざっと計算する。いま思いつく最善の策をふたりに伝達する。
「旧繁華街の奥にある橋から森に逃げよう。あそこならプランターをまけると思う。やつらが見失ったタイミングで、橋に戻ってそのまま帰還」
「了解」
ふたりはシフトチェンジをし、フルスロットルで目的の橋を目指した。
しばらくして、そこに到着する。アーチ状の石橋で、車がギリギリ二台通れるほどの大きなものだった。下に流れる川は街と森を分断しており、橋むこうはまったくの別世界だった。現に向こう側は帝国の敷地ではない、無領有地帯だ。
アロンたちは森の中に入っていった。身軽なポピーが先導して巻こうとするが、森の中でバイクを使って逃げるのが難しく、むしろ距離を縮められてしまった。どうすると相談している最中に、目の前にプランターが立ちはだかり、そのまま激突した。悲鳴をあげるソニアの安否を確認し、アロンは頭をフル回転させる。
どうする。
どうすればいい。
作戦は思いついた。しかし無謀なものだった。成功する確率は、せいぜい一割だろう。そのとき、ポピーが手榴弾を手に取り、いままさにピンを抜こうとしていた。
「ちょっと待ったポピー!」
「なんだよ! これで少しは撹乱できる……」
「作戦がある。成功するかわかんないけど、もうこれしかない。作戦には手榴弾が必須なんだ」
ガスマスクで口元は見えないが、ニヤリと笑った気がした。幼馴染のふたりに、不信感という言葉はないらしい。ポピーは作戦を聞いて素直にハンドルを切った。目指す場所はあの石橋だ。
速度をわざと落とし、プランターを惹きつける。石橋に差し掛かったとき、ポピーは蒸気タンクのバルブを最大まで開放した。バイク内に蒸気を充填させるためらしい。帰還に必要な分を充填し終わると、ノズルを引っこ抜き、蒸気タンクを片方の肩にかけた。
「ソニア、運転頼む!」
「ええええ!? 私運転したことないよ!」
有無を言わせぬように、バイクに跨っていたアロンは右側の足場に全体重を乗せて、ソニアが前に来るようにさせた。この状況で断りきれないソニアは、とりあえずハンドルを握ってゆっくり前に座り直した。アロンはハンドルから完全に手を離し、後ろへ周り、銃弾を装填し、あとはポピーのタイミングに合わせる。
並走するバイクが石橋の中央を通り過ぎ、プランターが橋を渡る。いまだ。
ポピーは、蒸気タンクを放り投げ、続けざまに手榴弾のピンを抜いた。
アロンは照準を蒸気タンクに合わせる。
プランターが石橋の中央に差し迫り、緩やかな放物線を描いた手榴弾が爆発する寸前、アロンは蒸気タンク目掛けて発砲した。
けたたましい爆音が地面を揺らした。蒸気タンクに満たされた高密度の蒸気が手榴弾の爆発を何百倍にも膨れ上がらせたのだ。頑丈な石橋もこれには耐えきれず、中央が崩壊し、それに巻き込まれたプランターが爆風で吹っ飛んだ。後ろから来ていたやつも目の前の橋が崩れていることに気づかず、そのまま川へ落ちた。
三人は難を逃れたのだ。
爆風で転倒した三人は安否を確認する。幸いにも怪我人はいなく、プランターも追ってきていなかった。あたりには、まるで花園があるように、プランターの出血——花びらが大量に舞っていた。
「すっげー!! よく思いついたなアロン。さっすが俺の親友だぜ」
「もう……もうだめ……」
まさかの初運転に気が抜けたソニアは地面に転がった。
少々休憩を挟み、バイクを起き上がらせて、拠点へ向かった。
7
夜になり、いわゆるリビングのような大部屋に全員が集まっていた。その中心にいるのはソニアだった。テーブルに置いた例の本を見せながら、昼間にした説明をもう一度みんなに話した。
疑うもの、信じるもの、関心のないもの。ひととおり話し終わったあと、ラワーが整理するように繰り返した。
「とどのつまり、どこにあるかわからない薬草を探すために、読めない本を頼りに旅に出たってことか?」
「ごめんなさい……」
「いやいや責めてるんじゃなくて、よく旅続けられたなって思ってよ」
「私はこの本を信じてますし、この本にすがるしかないんです。なにがなんでも薬草を見つけ出して、この腐った世界を終わらせます」
ソニアの決意を聞いた全員は言葉を忘れたように無言のままでいた。考えついた言葉はどれも適切ではなく、唯一この場の雰囲気にそぐう言葉といえば「そうなんだ」しかなかった。アロンは肯定派だが、大衆の意見はそうでないらしく、改めて自分が少数派なんだと身に染みた。
「なにが終わらせますだ、ぐだらねぇ」
くってかかったのはナデシコだった。
「そんなもんがあったら、とっくの昔に発見されて開発されてんだろ。なにが治療薬だ。なにが信じてますだ。人間ですら信用ならないのに、意味わかんない文字の本を信じるなんて飛んだバカかよ」
「おいナデシコ、やめろ」
「まあでも一理あるわね」
ナデシコに便乗してエリカもぼそっとひとりごとをこぼした。
あきれたラワーがため息混じりに止めようとするが、ナデシコは言葉を吐き捨てた。
「人のために生きてるやつは大っ嫌いだ。ヒーローぶってんじゃねぇよ」
そういうと、ナデシコは去っていった。さらにそのあとに続いてひとり、またひとりとリビングを出ていった。残されたのは二人と一冊だけだった。おそらく、だれも本気にはしてないだろう。唯一信じてくれたポピーだけが気まずそうに背中を向けて歩いていった。
ソニアは寂しそうに溜息をついて、本を手に取った。
「今日は疲れましたね」
「え? ああそうだね」
ソニアはやにわに立ち上がり、目を細めて花を咲かせた。「おやすみなさい」とぺこりとお辞儀押してリビングをさろうとしていた。
アロンは咄嗟に声をかけた。
「うわぁ綺麗!」
屋上から見上げると、星々が自由に煌めき、絨毯のように満面に広がった空があった。つらいことや嫌なことがあっても、ここにくれば心が安らぐのだ。
簡易的な椅子とテーブルを用意して、持ってきたポットでコーヒーを淹れた。不器用なアロンなりの、慰めだった。
「こんな景色を見たのは初めてです」
「あれ、北国出身じゃなかったっけ? そっちのほうが綺麗に見えそうだけど」
「見えるときはとても綺麗ですよ。けど、曇りとか雪の日が多くて」
空を眺めるソニアは、目を輝かせていた。そのまんまるの目いっぱいに星を映して、忘れないようにしているみたいだった。
その横顔が、アロンの妹にそっくりだった。知らず知らずのうちに、アロンは、ソニアに死んだ妹の姿を重ねていたのである。
——マコが生きていたら、こんな感じなのかな……。
見守るように見ていると、ふいにソニアがアロンのほうを向いた。じろじろ見ていたのを隠すように、コーヒーをずずっとすする。
特別会話するわけでなく、ゆったりと時間が過ぎていく。「コーヒーあったかいですね」「そうだね」と、間を繋いでは、また空を眺める。慰めはこんなんでいいのだろうか。と、少しの気まずさから考えたとき、ソニアが「私、」とつぶやいた。
「大義なんてないんです。花粉症に苦しんでる人を救いたいとか、腐った世界を終わらせるとか、そんなの建前でしかないんです」
なにか、肩の荷をおろすように、言葉を続けた。
「旅のきっかけは、親友がプランターになったことなんです。幼いころに両親が軍医として任務に行ったっきり行方不明になって、ひとりになった私を慰めてくれたのがその子なんです。一緒に住んで、一緒に遊んで。綿毛みたいにぽあぽあした子なんですよ。なのに……街に花粉が飛んできて、親友はプランターになりました……」
「その子は……どうなったの」
プランターになってしまったら最後、打つ手はなく、殺されるか、永遠に街や腐海をさまようのがおちだ。身内や友人が殺されるのも、珍しいことではない。現に、アロンも、ほかの仲間も、訳ありで、なんらかの過去がある。
ソニアは、ことのほか明るく、もしかしたらわざとそうしているのかもしれないが、アロンの目を見つめた。
「まだ生きてます。私が地下へ監禁したので」
驚きのあまり、コーヒーをこぼしそうになった。コップをテーブルに置いて、ゆっくり聞き返すと、やはり、アロンが聞いた言葉は間違いじゃなかった。親友を、監禁した……。
「プランターは不死だと聞きます。もちろん植物なので、太陽の光は入るようにしていますよ。だから、たとえ長い旅になってでも、親友を元に戻したいんです。それが旅を始めたきっかけで、私の使命です。世界を救うのは二の次です」
彼女の発言は、正義に満ちていた。この星々のように、ソニアの瞳は親友への想いで輝いていた。プランターを人間に戻す薬なんて、この世に存在しないのに、無謀を通り越して哀れにも思えてくる。
薬草が見つかる保証はない。そもそも本に描かれている絵が、本当に薬草かもわからない。人生を棒に振るほどの理由が、アロンにはいまいちわからなかった。しかし、惰性で任務をこなし、思考も行動もしない自分よりはるかに人間らしいと、ソニアに尊敬に似た憧れを抱いていた。
「見つかるといいな」
「はい」
星は、ゆっくりと回り続けていた。時間の経過も今日の出来事も忘れて、ただひたすらに、穏やかなひとときを満喫していた。コーヒーがなくなるまで、ゆっくりと。
8
翌朝、ソニアは連れ去られた。
ランドン帝国の憲兵が拠点におしかけ、上の命令だと言い、こちらの主張を無視して無理やりソニアを連行した。
抵抗していたソニアは、憲兵にばれないように、大切な本を俺に渡してきた。我が子を託す母親のような眼差しの裏に「お願い」とひと言添えていた。
憲兵とソニアが去ったあとの拠点は、珍しく静かで、蒸気がパイプを通る音がやけに響いていた。
最初のコメントを投稿しよう!