逃避

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逃避

 気がつけば、俺は立ち上がり無我夢中で走り出していた。玄関の扉へ体当たりするように飛び出して、振り返りもせずに階段を駆け下りる。マンションの入口を過ぎて、行く当てもなくただひたすらに走った。理解できない恐怖から少しでも離れられるように。  五分ほど走ったところで足を止めた。肩で息をしながら周囲を確認する。どうやら家から少し離れた公園へと来てしまったようだ。喉が渇いたが着の身着のままで飛び出してしまったため財布を置いてきてしまい、何も買えず仕方なくベンチに腰を下ろした。  大きく溜め息を吐いて、これからどうするかを考えてみる。警察に駆け込んだところで笑いものにされるだけだろう。かといって、そのまま家に戻ることもできない。幸い、この近くに後輩が住んでいる。一晩泊めてもらえるよう恥を忍んで頼み込むしかないだろうか。  ――こんな時間にいきなり泊めてもらうのは相手に迷惑だよ?  そんなことは言われなくても分かっている。こんな真夜中にいきなり泊めろと言ってくる先輩なんて碌な奴ではない。分かり切っているが、今は緊急事態なのだ。多少の無理でも聞いてもらって、後日しっかりとお返しをすれば問題ない。 「――って、あれ?」  違和感を覚えて辺りを見回す。誰かに何かを言われたような気がしたが、周りには誰も居ない。夜の闇に包まれてしんと静まり返っている。気のせいだったか。そう思って立ち上がり、後輩の家へと向かい始めた。  飲み会の帰りに何度か寄ったくらいだったため、はっきりとした場所が思い出せない。朧気な記憶を頼りに夜道を一人寂しく歩く。誰かがついてきているような気がして時折振り返るが、吸い込まれるような闇が続いているだけだった。  十分ほど経った頃、ようやく見覚えのあるマンションが見えてきた。安堵しながら小走りでエントランスに入り、オートロックの前に立つ。確か後輩の家は三〇六号室だったか。操作盤のキーを押す。 『はい、どちら様でしょうか?』  数回の呼び出し音の後、聞き慣れた後輩の声が聞こえた。 「後藤か?こんな時間に済まない。三上だ」 『次長?どうしたんですか?』 「いや、実はどこかに鞄を置き忘れてしまってね。中にはスマホも財布も家の鍵も入ってたからほとほと困っていたんだ。助けてくれないか?」 『え!?大変じゃないですか……電話も使っていいですし、泊まっていってもらっても大丈夫ですよ。今開けますから』  お礼を言い終える前に自動ドアが開いた。頼りになる後輩を持ったことに心の底から感謝しつつエレベーターへ向かう。今度すき焼きでも回らないお寿司でも何でも好きな物を奢ってやろうと決意して三階のボタンを押した。  焦りのせいか三階につくまで長く時間を要したようにも感じながら、扉が開くと待ち侘びたとばかりに足を早める。三〇六号室を見つけると、インターホンを鳴らした。しかし、中から後藤が出てくる気配はない。ついさっき受け答えしたばかりなのに出てこない訳もないのだが。 「トイレにでも行ってるのか?」  不思議に思いながらもノブに手を伸ばすと、不用心なことに鍵はかかっていなかった。家主の出迎えなしに中に入るのは気が引けたが、いつまでも外にいるのは心細い。俺が来ることは知っている訳だし、許可ももらっているのだから問題はないだろう。扉を開いて中へ入った。 「後藤、邪魔するぞ……ん?」  玄関から見える室内は何故か真っ暗だった。不躾とはいえ訪問者、先輩を真っ暗な状態で出迎えるほど非常識な男ではなかったはずだが一体どうしたのだろうか。  まさか、後藤の身に何かあったのか。  榊さんのことが頭を過り、そんな不安が芽生えた。後藤にまで何かあればたまったものではないと、後藤の名前を呼んでみる。しかし、返ってくるのは冷たい静寂だけだった。とはいえ、さっきまでは受け答えしていたのだ、何かあったとしてもまだ間に合うかもしれない。バタンと閉じる扉の音を背中で聞きながら、壁にあった電気のスイッチを入れた。 「そんな……どうして」  明かりが点いた瞬間、俺の目に信じられない光景が飛び込んできた。頭が酷く混乱して、自分自身を疑いたくなってしまう。そんなはずはない。それなのに、何度確かめてみても間違いはなかった。  ここは、だ。  後藤の家ではない。俺はどうしてここにいるのか。飛び出して逃げ出して、無我夢中に走って。後藤に助けを求めて、確かに後藤のマンションへ入ったはずなのに。ここは後藤の家であるはずなのに。それなのに。どうして。  同じような考えがぐるぐると頭の中を駆け巡る。答えなんてまるで分からない。目の前には理解できない光景が広がっている。幻覚を見ているのだろうか。それとも俺の頭がおかしくなってしまったのか。何度頭を振って理解できない光景を振り払おうとしても、目の前に広がる光景が変化することはなかった。  ――ギィ。  進むことを躊躇って佇んだままでいると、不意に廊下の先の扉がゆっくりと開いた。 『おかえり。ヨシアキさん』
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