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擦れ違い
榊さんはカクテルグラスをゆっくりと傾けてこくりと喉を鳴らし、短く淡い吐息を漏らした。しっとりした雰囲気の中、言葉を発する訳でもなくその余韻を楽しむ。彼女の横顔をちらりと見遣ると、酔ってきているのだろうか頬がほんのりと赤く染まっていた。
彼女は23歳だそうで、普段は僅かではあるが雰囲気に幼さを残しているのだが、今の彼女は大人びた艶やかさを醸している。間接照明で薄暗い室内であることも、その色っぽさに拍車をかけているようだ。彼女がぼうっとしているのをいいことに、俺はその様子をじっくりと楽しむ。
「私、入社したときから次長のこと気になってたんです。一目惚れというか。それに、研修でもとっても優しく教えてくれましたし、仕事中ミスしたときも笑ってフォローしてもらえて。もっと好きになっちゃいました」
どこか遠くを見つめるようにぼそりと呟く。それを聞いて、どくんと一際大きく心臓が跳ねた。カクテルグラスの縁をつうっとなぞる白く細い指と、優しい笑みを浮かべた赤い唇に目を奪われる。
「だから毎日仕事も勉強も頑張ってきました。早く気に入ってもらえるように」
僅かに残ったカクテルを飲み干して、赤く染まった頬に手を添える。緊張しているのだろうか、少しだけ手が震えているように見えた。俺も少しばかり酔っているせいで、それがとても愛しく感じてくる。
「でも先輩とかが次長にアタックしてみようって言ってるのを聞いて、早くしないと取られちゃうかもって。だからこうやって勇気を出しました」
彼女の揺れる瞳と視線がぶつかる。
「今日は帰りたくありません」
俺の手に彼女の手が重ねられる。末端冷え性で悩んでいるという彼女の冷たい手は、火照った身体に心地良い温度だった。思考回路がだんだんと鈍っていくのを感じる。酩酊したような浮遊感と高揚感で、このまま流れに身を任せてもいいかとも思ってしまう。
出世が決まってからというもの、アプローチしてくる女性は増えた。今まで関わりの希薄だった部署の女性からも声をかけられるようになったり。しかし、どれもこれも地位や名誉に引き寄せられただけの下品なアプローチばかりだった。榊さんのアプローチもそれらと同じだと思っていた。でも、彼女は違うのかもしれない。
「駄目……ですか?」
「わかった。今日は一緒に――おっと」
彼女の手を握り返そうとした瞬間、ピリリとスマホの着信音が鳴り響いた。慌てて画面を確認してみると取引先の担当者である野中さんからだった。週末のこんな時間にどうしたのだろうか。何か緊急の用事だろうか。
「取引先からみたいだ。ちょっと出てくる」
榊さんに断りを入れてから急いで店の外に出る。酔って火照った身体に心地良い夜風を感じながら、通話ボタンをタップして耳にあてる。
「もしもし、三島です。こんな時間にどうされました?」
『……ジジ…………ジ』
「野中さん?聞こえますか?」
『…………ジ……ジジ』
これは参ったな。電波が悪いのだろうか、雑音だらけで野中さんの声がまったく聞こえない。頭を悩ませながら電波が改善されないか近くをうろうろしてみるが、数分歩き回っても一向に改善されなかった。緊急事態なら早急な対応が必要になるため用件だけでも聞いておきたいのだが。
「もしもし?もしも――」
突然、ブツリと通話が切れてしまった。折り返しがあるかもと思い少しだけ待ってみたが、電話もメールもなかったため諦めて店に戻った。
「あれ?」
せっかくいい雰囲気だったのに随分待たせてしまったと申し訳ない気持ちで店に入ると、そこに榊さんの姿はなかった。お手洗いにでも行っているのかと思い待ってみたが、十五分ほど待っても戻ってこない。一体どうしたのかとバーテンダーに聞いてみると、どうやら会計を済ませて先に帰ってしまったそうだ。
何が起こっているのか理解できなかった俺は、その場でしばし立ち尽くした。十五分も待たされている間に気持ちが冷めて帰ってしまったのだろうか。バーテンダーが付け加えた帰り際に悲しそうな顔をしていたという言葉に、胸が締め付けられるような痛みを覚える。
元カノと別れる原因になったのも、元はと言えば仕事ばかりで元カノのことを放置してしまったことによる擦れ違いだった。それによって、元カノの心は別の男へと移ってしまったというのに。また、同じ過ちを繰り返してしまうなんて。
今ならまだ間に合うかもしれない。そう思い、スマホを取り出して榊さんへ電話をかけてみることにする。
「あれ、おかしいな……こんなときに故障したのか?」
急いで彼女へ電話しなければならないのに、通話ボタンをタップしても反応してくれない。どころか、他のアプリを立ち上げることもできなくなっていた。可能なのは画面をつけたり消したりすることくらい。
「はあ……仕方ない。後でまた謝っておこう」
大きな溜め息を吐きながらスマホをしまい、会計を済ませて家路についたのだった。
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