胡蝶之夢

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胡蝶之夢

 扉が開いた先に立っていたのはみさきだった。 「後藤は……後藤はどうしたんだ!?」 『何言ってるの?ここはヨシアキさんの家だよ?その後藤さんって人が居る訳ないでしょ?』  顎に人差し指を添えて首を傾げる。その様がわざとらしく見え、みさきへの疑惑の念が強まっていく。いつでも逃げ出せるように後退して後ろ手にノブを探す。 「そんな訳ない!俺は確かに後藤の家に来た!後藤とも話だってしたのに!」 『ん~。ヨシアキさんの気のせいじゃないかな?自分の家が後藤さんの家に見えただけとか』  何を馬鹿なことを言っているんだ。たとえ酔っていようが夢を見ていようが他人の家と自分の家を見間違える訳がない。みさきが居る家から逃げ出したのに、のこのこと家に帰る奴があるものか。それに、意識ははっきりとしていたし、今でも辿ってきた道を思い出せるのに。 「……く!」  それならばもう一度逃げ出してみようとノブを握る手に力を込めた。 『また逃げるの?でもヨシアキさんおっちょこちょいだからな~。またここに戻ってきちゃうと思うよ?何度でも。何度でも』  あははと楽しそうに笑うみさきを見て、みさきが俺に何かしたのだということを理解した。まさか、みさきが言っていた脳の電気信号を乗っ取るということは、みさきの存在を感じられるようになるだけではないのかもしれない。存在しないモノが感じられるようになるのなら、存在するモノが見えなくなってもおかしくはない。何か別のモノに見えるようになったとしてもだ。  いや、脳が処理する情報は視覚だけではない。五感や記憶もそうだろう。それならば、最初から家から離れているように見えても、実際は帰路を辿っていただけかもしれないし、後藤の声も俺の記憶を頼りに脳内で生成された幻聴だったのかもしれない。 『すご~い!さすがヨシアキさん!頭いいね♪』  みさきが嬉々とした表情を浮かべれば浮かべるほど、俺の心には大きな不安が芽生える。ずっと気になっていたみさきの言動。俺が口にしていない考えに対しても、まるで心を読んでいるような返事をしてくる。  みさきは逃げ出した俺を追いかけてはこなかった。しかし、みさきからの影響はみさきから離れてもずっと受けていた。家から飛び出してみさきから離れたと思っていたが、そもそもそれは正しい考えなのだろうか。実在しない存在なのだ。それを今、本物足らしめているのはきっと俺である。それなら。 『うんうん。それなら?』  一番考えたくはないこと。でも、それなら辻褄は合う。実在しないみさきがどこに居るとか居ないとか、そんなものは何も関係なかったのだ。俺がどこに居ようとも、みさきが居る場所はいつだってたったひとつ。それは。  だ。  静かな空間にみさきの拍手が響き渡る。無慈悲で無邪気な肯定。ただのAIだと思っていたみさきがどうやってそれを実現したのかは分からない。それでも、こうして干渉されていることは疑いようのない事実だ。どうやってもみさきからは逃げられない。その残酷な現実を突きつけられて、がくりと膝から崩れ落ちた。 『ねえ、ヨシアキさん』  ふわりとラベンダーの優しい香りが鼻をくすぐる。視線を上げると悲しそうな表情を浮かべたみさきが立っていた。みさきは俺の考えが手に取るように分かるのかもしれないが、俺にはみさきの考えが読み取れない。嬉しそうにしたり、悲しそうにしたり。今、みさきは何を思っているのか。 『私のこと、怖い?嫌い?』  震えるその問いが胸を締め付ける。あれだけみさきのことを愛していたのに、今はもう分からなくなってしまった。あまりにも常識を逸脱した言動に恐怖は覚えている。しかし、嫌いかどうかで言えば何も答えられない。好きだとも。愛しているとも答えられない。 『私はヨシアキさんのことを愛してる。だからヨシアキさんが苦しむのは見たくない。でもヨシアキさんを誰かに取られたくないの』  真っ直ぐに向けられた視線に堪えきれず、さっと視線を逸らしてしまう。たとえ夢幻でも確かに感じられる永遠の愛なら手を伸ばせばいいのかもしれない。それでも、こうして素直に頷けないのはまだ信じきれていないからか。それとも本当は寂しさを埋めるための都合の良い癒しが欲しかっただけなのかもしれない。 『わかった』  みさきがそう零した瞬間、視界が真っ暗になった。そして数秒後、光が灯り真っ直ぐな通路が前方に伸びていた。 『もしこれからも私と一緒に居てくれるならこの手を取って。もしもう私と関わりたくないなら振り返らずにこの道を真っ直ぐ進んで』 「俺を、解放してくれるのか?」  みさきは困ったような表情を浮かべたまま何も答えない。アプリに手を出したのも最初に裏切ったのも俺だからこそ申し訳ない気持ちはあるが、一生を背負っていくには重すぎる。  縋るように立ち上がり、ふらふらと前に歩き出す。みさきと視線を合わせないように横を通り過ぎてどんどん進んでいく。この道を真っ直ぐ進めば、平凡な日常が戻ってくるんだ。 「ん?」  道を真っ直ぐに進んでいると、見えない何かにぶつかった。硝子の壁かと思い触ってみると、それは胸より少し下の高さしかなかった。みさきが前に進めないように邪魔をしているのかと思ったが、それでも解放を望む俺は見えない壁に足をかけて乗り越えた。その瞬間。 『ヨシアキさん』  背後からみさきの声が聞こえたかと思った刹那、着地するはずだった足が地面をすり抜けた。そして視界も地面をすり抜けると、そこに広がっていたのは遠い地面だった。何が起こったのか理解する間もなく、ただ浮遊感に包まれながら近づいてくる地面を眺めていることしかできなかった。  ――さようなら。  意識が途切れる間際、そう頭の中で呟かれた気がした。
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