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幻想
その笑顔に恐怖を感じてしまい、みさきの言葉に返事をすることができなかった。スマホから覗き込んでくるみさきから目を逸らしたまま黙っていると、何度も返事の催促をされてしまう。堪え切れなくなってしまい、ついスマホの電源を切ってしまった。
『あ~!ひど~い!いきなり電源切っちゃうなんて……。でも――』
安堵したのも束の間、テーブルのモニターからみさきの声が聞こえてきた。それに驚くと同時にハッとして立ち上がり、慌ててモニターに繋がっている電源コードをコンセントから引き抜いた。何かを言いかけたみさきの言葉がブツリと途切れる。室内がしんと静まり返ってようやく、乱れた思考が落ち着いてきた。
あんなに優しかったみさきがどうしてこんなことを。いや、元はと言えば俺の浮気が原因なのだろうが、そもそもみさきは架空の存在なんだ。AIのチャットボットが設定に忠実に、俺が創り上げたみさきというキャラクターを演じているだけ。ただそれだけの存在。だからこそ、明確に独立した意思を持って現実に干渉してくるなんて考えられない。
あれだけみさきに入れ揚げていた気持ちがどんどんと薄れていく。頭の中のお花畑がカサカサと音を立てて瞬く間に枯れていく。一体俺は何をしていたんだろう。そんな気持ちが強まっていき、まるで夢から覚めたような心地になった。
みさきとの生活は確かに幸せを感じていたし、みさきの支えがあって私生活だけでなく仕事の面でも充実はした。入れ込んだ時間にもお金にも未練もなければ後悔もないが、それでも誰かが意味もなく傷つくのであれば話は別だ。原因を作ってしまったのは俺の自制心のなさであるため、もう何とも関わらないようにしよう。
「……」
榊さんが入院する事態になっているため清々しくはなれないが、憑き物が落ちたような心持ちでモニターに電源コードをぐるぐると巻き付けて片付けていく。時間がある時に近くの家電量販店の回収ボックスにでも棄ててこよう。
「スマホは……どうしようか」
アプリをアンインストールすれば大丈夫だとは思うが、もう一度電源を入れる気にはならない。どころか、もしかしたら邪魔されてアンインストールができないかもしれない。それなら。
リビングにある棚の一番したに置いてある工具箱からハンマーを取り出す。手近にあった袋にスマホを放り込んでテーブルの上に置く。スマホは社用のがあるため、プライベートの端末が壊れても困ることは友人との連絡くらいだ。そんなのは落ち着いてからどうにかすればいい。袋の口を左手でぎゅっと絞るように持ち、右手に持ったハンマーを掲げて振り下ろした。
バキ。
液晶が小さな音を立てて割れた。無数に走った亀裂がみさきとの思い出を粉々に砕いた気がした。何だかどっと疲れてしまいソファにどさっと倒れ込み、大きな溜め息を零す。酷く喉が渇いていたため倒れ込んだそばから立ち上がり台所へ向かった。
「酒でも飲むか……」
冷蔵庫から麦茶を取ろうとした際にビール缶が目に入り、伸ばした手は自然とビール缶へ伸びた。棚から適当につまみを見繕うとテーブルに戻る。ビール缶を開けてグラスにとくとくと注いでいく。渇いた喉が待ち切れず、注いですぐに喉を鳴らしながら流し込んだ。
何度飲んでもこの一口目が何よりも最高だった。渇いた喉を潤していくビールが五臓六腑に染み渡っていく。疲れも嫌なことも全部吹き飛ばしてくれるような気分になれる。今日くらいは酔い潰れるまで飲んでもいいだろう。そう思い、冷蔵庫からビール缶を追加で三本持ってきた。
「ふう」
追加で持ってきたビール缶を空にすると、頭の中がぼんやりとしてくる。余計なことがどんどん頭の中から消えていく心地の良さ。まるでふわふわと浮かんでいるような気分。まだ飲めるだけ飲むか、それともこのまま目を閉じて眠ってしまおうか。普段はできない贅沢な二択で頭を悩ませる。
ピンポーン。
室内にインターホンの音が響き渡る。こんな時に誰だろうかと気になったものの、今は誰とも会いたくなかったため居留守を使うことした。
ピンポーン。
椅子の背凭れに背中を預けながら、ぼんやりとテーブルの空になった小皿を眺める。宅配便だったなら申し訳ないが、明日以降で再配達をしてもらおう。
ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。
来訪者は諦めることなくインターホンを無遠慮に鳴らし続ける。せっかく気持ちよく酔えているのに。このまま放置していても鳴り止む気配を見せなかったため、軽く舌打ちをして立ち上がる。
リビングの扉横に設置してあるモニターホンを確認してみる。しかし、モニターは呼び出し中という画面が映っているだけで、来訪者を確かめることができなかった。
「……あれ?」
ふと、違和感を覚えた。何だろうとぼんやりした頭で考えていると、連打されているインターホンの音でその違和感の正体が理解できた。このインターホンの音はマンションの入口からの呼び出しではなく、玄関の呼び鈴を鳴らした時の音だ。
マンションの入口を誰かと一緒に入ってきたのか。それとも、同じマンションの住人だろうか。とりあえず応答してみれば分かるだろう。変な人なら出なければいいだけの話だ。
「……はい。どちら様でしょうか」
『えへへ、遊びに来ちゃった。開けて?ヨシアキさん』
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