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そして夜勤の明けた午前9時半。 絶対に行くとかたく決心をしたのに、日和って道中で何度も引き返そうとした。駅を降りてからも重い足取りであった。しかしどうにか教会までやってこれた。シャワーくらいは浴びようかとも思ったが、家に帰るとまた決心が揺らぎそうなので、職場から直行した。 重そうな扉がぴったりと閉じられているが、その脇の張り紙には【どなたさまもご自由にどうぞ】と書かれていた。その文字に後押しされ、恐る恐る取っ手を握り、見た目通りの重さの扉をそっと開いた。 中を覗こきむと、映画でしか見たことのない礼拝堂の光景があった。ステンドグラスではないが、長方形の大きな窓ガラスがつらなり、左右には4人掛けくらいの長椅子が10列ほど並べられている。そして最前部中央には十字架の彫られた講壇が据えられ、朝の光を取り込んだ明るく解放的な空間であった。 藤見はハッと息を呑んだ。左側の前から2番目の長椅子に誰かが掛けている。というより、ひとりしか掛けていなかった。 (もしかしたら、もう閉まる時間だったのかな?……朝に聖書の勉強会をやってると聞いたけど……) 藤見がそのまま扉を閉めるか入るか迷っていると、椅子に掛けた男が後ろも振り返らずに言った。 「待っていたよ。そろそろ来るとわかっていた」 「……え?」 「入りなさい」 「あ……あの、失礼します……」 そろりと中に入ると、藤見が「実は……」と口を開いた。だが男が遮った。 「悪夢にお困りのようだね」 「……なぜ?」 「なぜって、それが君がここに来た理由だろう」 「いえ、なぜそれがお分かりに…」 男がスッと立ち上がる。ずいぶんな背の高さだ。ゆっくりとこちらを振り返る顔。近くに寄らなくとも、端正な顔立ちであることが窺えた。 「私の息子が君の夢にまで入り込んで、君を求めているからだ」 やはり彼が瑠架の父親であると藤見は確信した。 「すまないね。悪意はないんだ。無意識のことさ」 「あの……牧師様。俺にはよくわからないんです。彼の持つことわりは俺の持つものとはあまりにもかけ離れています。彼を信じてあげたくても、その一線を越えることは俺には難しくて……」 「だが君は実際の悪夢に魘されている」 「それは……夢ですから」 「私は息子に対する愛が少々行き過ぎている。自覚しているし、それによって人に迷惑をかけてはならないこともわかっている。だが君が息子を取り戻したいのなら、多少盲目にならなくてはならない」 「盲目?」 「君の常識を打ち捨ててまで、怪異や超常現象を信じろとは言わない。だが息子の言うことを疑わないでやってほしい。ほしかった、というべきか」 「俺は彼のいうことを否定していません。けれど盲目なだけでは彼と向き合うことはできないと思います」 自分の口からこんな反論めいた言葉が出るとは思わなかった。藤見は鼓動が速まるのを感じつつも、目の前の男に対して立ち向かっているつもりでいた。 「……牧師様。俺の夢を覗くことはできますか?」 「ああ、とっくに見えている。私は人の夢を覗くことが得意なのだ。悪い夢を見せることもね」 「瑠架くんがそれを引き起こしているという根拠は?」 「君には理解できまい。聖職者の中には多少わかるものもあるだろうが、魂を侵され巣食われている状態を、君は実感として持つことができないだろう」 「どうすれば実感を持てるのですか?」 「悪魔の存在を君の脳が理解することだ。神のように信じるということではなく、理解だ」 藤見は瑠架の妄言めいた言葉の数々を思い起こした。彼は悪魔はいるものとして捉えていたし、神は信仰心によって成り立つものだとも言っていた。 それらの言葉を聞くたび、自分はどこかでこう思っていた。彼は自分の頭で作り出したおとぎ話をしているだけなのだ、だから本気にする必要はない、と。思っていたというより、そう信じていたかった。それを見透かすように、目の前の牧師は続けた。 「だからただの人間である君が、瑠架の見る光景を信じてやりたいと思うのなら、盲目になることが必要なのだ。人それぞれが心にいだく神は盲信によって成り立っている。神だけではない。すべての信仰も愛も、筋道立てて理屈を述べることはできない。……本当はないものをあると思い込むことも、またその逆も然りだ」 「そうですか。……では一つ教えてください。どうすれば俺はこの悪夢から解放されるのでしょうか?」 「瑠架が力を手にしたときだ」 「力…?」 「信仰と悪魔に対抗するための力さ」 「……彼は何になろうとしているのですか?」 「罪深く、慈悲深き母体だ」 「あの、俺にはさっぱり」 「理解が及ばぬのは、君が瑠架を信じてやれなかったせいだ」 「……」 「……だがこうしてわざわざ私を頼って訪ねたのだから、君の悪夢を払拭してやろう。そのやつれた顔を見るに、瑠架の目覚めを待てなどと悠長なことは言っていられないようだな。警備の仕事に障るだろう。……いろいろと済まなかった。私も息子も、君には感謝している」 次の瞬間、藤見は目を大きく見開き硬直した。 「……え?」 「目を閉じるんだ」 まばたきをしたかすらわからないほどの刹那。牧師は藤見の背後に立ち、そっとその頭に右手をかざした。 「……牧師様……あなたは……」 身体が震え出しそうなのをこらえる。寒いのに汗が噴き出すような嫌な感覚が全身を包んだ。 「帰ったらよく眠るがいい」 頭頂部に手のひらが押し付けられる。その記憶を最後に、藤見がふと目を覚ますと自宅のベッドの上だった。部屋着に着替え布団をかけて眠っていたようだ。デジタル時計はまもなく18時になろうとしており、そろそろ出勤の準備をする時間であった。悪夢は見なかったが、ここまで辿り着いた記憶もない。まだ夢の中にいるのかとも思ったが、肉体の感覚的にこれは現実に間違いないらしい。 その後いつもの時間に職場に行くと、揚げた鶏肉に喰らいつく鬼城が、藤見のことを見もせずに言った。 「よかったなあ、寝不足が治ったみてえで」 「………」 「もうには近づくな。インチキ牧師野郎は人間じゃねえ。正真正銘の悪魔だ。息子は悪魔じゃねえが似たようなものさ。人間が迂闊に近づけば食い物にされる。すでにもう、ひとりの男が犠牲になってやがる」 「男…?誰が?」 「知らなくていい」 「君も悪魔なのか?」 「ああ」 「瑠架くんの正体を知っているのかい?」 「知ってるが、それも知らなくていい」 「君が本当に悪魔なら、なぜ普通にバイトをして暮らしているんだ?」 「俺だけじゃねえ。世界中に何百とそういう奴らはいる。……人間は悪魔を嫌がるが、悪魔が住みつきやすい楽園も作り出した。俺らは人間がいうところの悪意に寄生して生きてるんだ。だから契約を交わしたときだけ仕事をして対価をもらうが、それ以外はこうやって普通にお前らに紛れて暮らしてる」 「あの少年を殺したのも君か」 「ああ」 「何を対価にした?」 「殺した奴の魂と、依頼をしたいじめられっ子の魂さ。そいつが死んだら貰い受ける」 何てことのない顔で鶏肉を貪り、思い出したようにスマホゲームのログインボーナスを貰う。 「ジミー。お前の記憶を消すことも、あるいはお前の口を封じることも俺にはたやすい。だがあえてそうしないのは、お前が俺にとってなんの危険因子にもならない無力な人間だからだ。それに一応は話し相手として重宝してやってるんだぜ。誰かにお前の殺しを依頼されて、俺のターゲットにならない限りはお前に手出しはしねえよ」 骨を空箱の中に捨て、残ったジンジャーエールを飲み干すと、「さーて帰るか。今日も万引き以外なんも無かったぜ」と言い、制服を脱いでさっさと帰って行った。
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