2 オオカミの眠る土地 ②

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2 オオカミの眠る土地 ②

 締め切った拝殿の(しとみ)へばたた、ばたたと風が雨を叩きつける。木造建築の隙間から入り込んだ風で四隅に配された蝋燭の灯火が揺らぎ、床に座った二人の影も揺らいだ。 「最近の梅雨は、落ち着きがないものだな。まるで春の嵐だ」  袴も上衣も真っ白な八幡神が床にあぐらをかいて座る。その正面で松葉色の袴姿で幸紘は正座していた。 「最近、媛がおとなしい」 「そうなんですか?」 「雨の季節はどうしても訪問客が減る。その分媛の腹も減るから、割と毎年うるさいんだが」 「はあ……」  幸紘は気のない返事をして例年を振り返る。確かに雨の季節になると浩三が非常に『良い人』になる気がした。神職らしい、とても品行方正な、慎み深い人になるのだ。同時に活動量も減ってしまうが、梅雨のせいだとばかり思っていた。もしかしたら腹を空かした瀬織津媛に、少々普段より多めに『厄』を喰われているのかもしれなかった。  今年が例年以上に静かなのは浩三だけでなく、幸紘の『厄』も喰っているからに他ならない。腹が満たされているので眠っているのだろうと思われた。 「それで? 俺に聞きたいこととはなんだ?」 「百二十年前の、山津大神封印の件です」  長い前髪の隙間からまっすぐに八幡神を見る幸紘の顔を、蝋燭のほの暗い光が照らす。八幡神は一瞬言葉を失ったが、口元を掌で拭いつつ、視線を逸らして暫く何事かを逡巡していた。 「知ってどうする」  少し低めの、声量を抑え気味にして、咎めるように八幡神が尋ねる。 「縁起に残されないには残されない理由がある。俺たちの事情など、人は知らぬ方がいいということだ。特に神様に帰依し、これからの淵上を背負おうとするお前にとってはな」 「だからです。俺は淵上の土地を背負うと、この神社を継ぐと決めました。ならばこの土地の歴史と縁起の真実を知る権利と義務があるはずです。お願いします。俺に、教えて下さい。自分の正義を生きるには、俺はそれを知らなくてはならないんです」 「次の淵上の跡継ぎは、なんとも言いにくいことを頼んでくるな」 「どうしても話してくれないなら、今度は『聲』使ってお祈りしますよ」 「その上脅迫までしてくる。……やれやれ」  八幡神は小さく肩をすくめて軽いため息をつく。胡座をといて正座し、背筋を伸ばして太股の上に拳を添えると幸紘と向き直った。その姿は普段のもっさりとした中年ではなく、威風堂々としていて、その様子に幸紘の背中にもピンと緊張が走った。 「さて、どこから話そうか。本来これから話す事は歴史には一切記されぬ事実だ。浩三も知らぬ。奥山奇譚になぜ八津山の縁起が記されたのかはわからないが、全ての人々にあの厄災は記憶されておらぬはずなのだ。だからお前の胸の内にだけ、とどめておくことになる。承知しておくように」  静かな声で八幡神が言うと、二人の顔を照らした蝋燭の火が隙間風に揺られた。 「お前の神様はどこまで教えてくれた?」 「山津大神は神様が打ち倒したのだと」 「うむ」  八幡神は口に手を当てたまま大きく深呼吸する。 「彼らはかつて、とても、とても親しい友人だったとも知りました。実際はそれ以上の、『魂』のレベルで縁を結んだような間柄だった事も」  口にして、ちくり、とまた幸紘の胸が痛んだ。 「あとは、過ぎた話だと、それっきりです」  八津山からの帰り、山津大神に関わる一切に、神様は口を閉ざしてしまった。  八津山で見た、あどけない笑顔と殉教者の無表情を幸紘は思い出す。  土地を、人を守るという正義のため、深く深く愛した存在を手に掛けた。神としては当たり前の事だとしても、彼の性格上、全てのことに仕方ないなどと平然と口にできるほど、心の内は無感動ではいられないはずだった。  それでも神格と実体が存在する神である限りは、自らの正義に膝を屈する事無く、永遠ともいえる時間を生き続けなくてはならない。  幸紘はそんな神様の背負い続ける過去を、少しでも自分の背に分かち合いたかった。
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