2 オオカミの眠る土地 ①

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2 オオカミの眠る土地 ①

 水田地を埋め尽くす緑色の絨毯に初夏の風が通り抜ける。日差しも、照り返す暑さも、梅雨時ではあったがすでに夏の匂いを漂わせている。それでも大地が雨によって冷やされている間の、貴重な晴れ間の風は心地よく幸紘の髪を揺らした。 「俺が生まれる前はもっと涼しかったんでしょ?」  自転車を漕ぎながら幸紘が尋ねる。後ろに立ち乗る神様は大きなつばの麦わらが飛ばされないように手を添えて青苗の水具合と山の新緑を眺め見た。 「こんなもんじゃねえのかな。さすがに夏の最中に三五度を超える日はそう無かったけど」 「そんなものですか」  後ろに乗っている神様は幸紘に負担をかけまいと重量を軽くしていたが、それでも幸紘は少々息切れ気味だった。その顔を背後から神様は覗き込むようにして見た。 「車で回った方がよかったんじゃね? ユキ、へとへとじゃん」 「それじゃ俺の体力作りにならないでしょ。いいんですよ、これぐらいが、丁度」  幸紘はサドルから腰を浮かせて少し前のめりになってさらに漕ぐ。村の道は平端なのはよかったが、逆に返せば下り坂の休憩は期待できないということだ。フィットネスクラブのエアロバイクと一緒でずっと漕ぎ続けなくてはならない。さらに時折前方から吹き込んでくる強い風が容赦なく負荷をかけてきた。  月の中ごろに田植えが終わってから、休日に天気がいいとこうやって神様と自転車で村を回っていた。おかげで、某スタイリッシュ系大泥棒ように細くメリハリのなかった幸紘の足は、年齢相応の男性的な太さを持ち始めていた。  水田地を一巡して八津山に近い川沿いの土手で自転車を止める。青々とした雑草の生えた法面に幸紘は座り込んだ。  神様が荷物籠に入れていた魔法瓶の水筒を差し出す。コップがついているタイプだったが、幸紘は細い筒状の注ぎ口に直接口をつけた。勢いよく中身を煽る。半分は氷を詰め、あとはなみなみ注ぎこんだ麦茶が喉を癒す。あまりの冷たさに頭の奥がキーンと痛んだ。 「前も言ったけど、やるっていうとやりすぎるからな、ユキは。運動する習慣のなかった人間がいきなり高負荷かけたって一朝一夕に心肺機能がついてこないんだから、そのあたりは考えろよ」 「わかってます」  幸紘はたてた膝の間に深く息を吐いて俯いた。わかっていて、追い込んでいるのだ。頭が真っ白になって余裕を失うように。体がへとへとになって動かなくなるように。  苦しさを欲していた。神様への許されない恋への苦しさに代わるものなら幸紘はなんでもよかった。今のところ瀬織津媛からの暴虐の苦しさがそれで、全てを押し流す力に晒され空っぽになるほど搾取された後だけは楽になれた。媛は神なので求めれば応じてくれる。だが痛々しいと言われたのは正直後を引いていた。彼女にしてみればただの感想なのかもしれないが、幸紘には非難めいて聞こえるのだ。  言われなくてもこのままでいいわけがないなどと、幸紘はわかっていた。ではどうすればいいのかが見えてこないだけだ。  神様が幸紘の手から水筒を奪う。幸紘が顔を上げると、白い雲が流れていく青い空と雲間から輝く太陽を背に、神様が注ぎ口から直接中身を飲んでいた。その白い喉仏が艶めかしく動くのを眺めて幸紘の息が詰まった。 「あ……」 「なに?」 「……いや」  間接キスだ、と幸紘の内心は嬉しくて、恥ずかしくて、誤魔化しに頭を抱える。が、よく考えたらそれよりも生々しい口づけをかわしている。ただそれがキスではないだけだ。  ケアであって、キスじゃない。診察であって、愛撫ではないのと同じこと。患者が医者と恋に落ちるなんていうのは都市伝説かドラマの中だけに過ぎない。神と神職とはいわばそういう関係にすぎない。幸紘はそう自戒していた。
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