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「狒々が鳴いてるな」
神様は八津山を眺めて言った。雨雲を運んでくる風がざっと青苗の草原を駆け抜けていく。その先へ幸紘は視線を向けて八津山を眺めると、暗い木立の合間から風音に流されて細かく区切った甲高い獣の鳴き声が聞こえた。
「警戒音だ。喧嘩でもしてるかな」
「狼に遭遇したのかもしれませんよ」
幸紘は立てた膝の間に再び視線を落としてぼそりと言った。
「いるはず……ないじゃん。狼なんて」
神様は幸紘を見下ろして、少し低めの声で返す。
「ですよね? でも見たんですよ、狼。金色の毛並みの」
「いつ?」
尋ねる神様の声は少し震えていた。幸紘は見上げた神様の瞳は険しかった。驚きと、戸惑いと、期待と、切望がごちゃ混ぜになった感情を必死に押し殺しているように幸紘には見えた。
これまで見たことのない表情が幸紘の心をかき乱す。どうしてそんな顔をするのか、と動揺する胸の内を知られたくなくて、幸紘は冷静を装って神様から視線を逸らし、前方に広がる青苗の草原に目を向ける。風が柔らかく細い穂先を撫でていった。
「初めて見たのは柳川の家に行った日で、四月の初め頃です。巡見中に八津山近くで。全体的に金色の毛皮で、先の黒いふさふさの尻尾をしてました。野犬かと思ったんですが、それにしては肉付きも雰囲気も違うな、と」
「それって、ユキは今まで何回か見てるのか?」
神様の問いに幸紘は答えを迷って言葉を探す。
二度目は結界と『まじない』が張り巡らされた神域の中だ。狼はいつの間にかそこに居た。邪魔者が入り込まないように完全に封鎖されていたはずの結界区域に入り込んでいたのだから幽世の存在だとは思えない。しかし『聲』の事といい、狒々を一撃で制圧した強さといい、ただの狼でないのも間違いない。
神様からの視線が痛い。正直に言える雰囲気が今の神様になかったので、幸紘は黙っておくことにした。
「見たのはその時だけです。鳴き声は神様と出会ってから何度か。その時も犬の鳴き声かな、と思ってたんです。でも狒々に山守を任した時に山から聞こえてきた声について聞いたら間違いなく狼の声だと」
「ありえない」
「加奈子からもそう言われました。調べてみたら日本の狼って一九〇〇年代初めに絶滅したんですね。でも八津山は神様達が守っているから、もしかしたら生き残ってたのかもしれませんよ」
「そんなはずは、ない」
神様ははっきり断言して八津山を眺め見る。相変わらず険しい目には、いつぞや瀬織津媛に見せたような殺意とまではいかないが、強い緊張が感じられた。
「お前は……永遠に眠っているはずだ」
風に紛れた言葉を、幸紘の耳ははっきりと聞き取っていた。
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