2 オオカミの眠る土地 ①

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「その狼を神様は知っているんですか?」  幸紘の問いに、神様は答えない。幸紘はゆっくりと立ち上がって、神様の肩を掴む。軽く幸紘を見上げる黒緑の瞳を金色の瞳でまっすぐに見かえして、幸紘は『聲』を使った。 「あの狼は何です? 教えてください」  みるみる神様の顔がはっきりとした驚愕と非難で彩られていく。完全に『聲』の支配下に置けるわけではないが、不意打ちとしては多少の効果があったようだった。神様は少し視線をそらして小さな唇を噛んだ。 「……山津大神だ……」 「狼が、ですか?」  幸紘の頭の中に真っ先に思い浮かんだのは「オオカミだけに?」というつまらないダジャレだった。それが声の芯に現れたのか、神様は口元を拳で抑えて小さく笑った。そうしてふうっと長くため息をつくと、幸紘に向き直って人差し指で軽く胸元を突いた。 「お前の考えたことわかるけど、因果は逆だからな。日本語のオオカミって種族の名前の方が大いなる神からきてるんだ。山の生態系の頂点に立つ生き物だからな」 「熊じゃなくて?」 「熊は完全に成獣になりゃ別だけど、未熟な状態だと鳶や烏の集団にも勝てやしねえよ。分厚い肉と硬い毛による防御力とでけえベアクローの重量系攻撃力が取り柄なだけで、足の速さと持久力で言ったら野犬にすら勝てないし、身の軽さで言ったら猿や鳥には勝てない。集団性がないから戦略で力を封じ込められたら罠を張った人間にも負ける。まあ基本は棲み分けて直接争うことはないけどな。……いいぜ。話せることは話してやるから『聲』使うの無しな。今後俺にそれ使ったら鏡池に帰るから」 「わかりました。スミマセン」  幸紘は喉元に手を当てて咳ばらいをした。 「山津大神は、亡くなったのでは? 八津山は墓標なんでしょう?」 「墓標、というのは、そうだが、完全に消滅したわけじゃない。打ち倒されたのは、間違いないが……『命』が封印されただけだ。秋声にもそう言った」 「ええ。奥山奇譚にも、封印された、と」 「封印によって山津大神としての『命』が完全に山の中で眠りについた。だからその姿が八津山から出てくるはずはない。でもユキが金色の狼を見たって言うなら、それは山津大神しかいない。日本狼(ニホンオオカミ)だとしたら毛色はもっと赤茶色っぽくて背中が黒いから」 「そうなんですか?」 「サイズも柴犬より少し大きいくらいだ。日本の生き物ってのは餌が限定された閉鎖的な地理条件と一年の半分が比較的暖かい気象条件のせいであまり大型化しない。人間も含めてな」 「ハスキー以上ありましたよ」 「たぶん遠く北の大地にいた個体だ。緯度が高くなるほど生物はカロリーを保持する器である体格が大型化するらしいから」 「蝦夷狼(エゾオオカミ)ですか?」 「かもな。加奈子に聞いたら俺が金狼と出会った頃には氷河期ってのは終わってたらしいから、大陸から渡ってくるのは無理だ。流氷に流されたか、北海道かそのあたりから泳いで渡ったか、なんにしろ何らかの方法で海峡程度を渡ってきたんだろうよ」 「いつ、ですか?」 「俺が神様になる前。まだ魚でしかなかった頃」 「一五〇〇年くらい前、ですか?」 「あいつと最後に会ったあとに俺は冬眠に入って、次に目が覚めたときにはすでに天啓が落ちてたから、そうなるのかな。狼つったら日本狼しか見たことがなかったから、初めてその姿を見た時はびっくりした。なんて大きな獣だろうって。その上に毛皮も瞳も全部ピカピカの金色で、十五夜に輝く満月みたいに綺麗だったんだぜ」  神様が幸紘にふわっとあどけない笑顔を向ける。その顔があまりにも華やかで可愛らしく幸せそうで、幸紘は息が止まる。だが神様の濃い黒緑の瞳は幸紘を見ていながら、これまで幸紘にだけ向けられていた慈しみも愛おしさも、幸紘を通り越えて遠く記憶の中へ向けられていると思ったら、胸が痛んだ。 「初めて出会ったときはお互い一人身だった。その当時の鏡池は人間達が魚を獲りに来るから数を減らしていたし、水が冷たく澄みすぎて食べるものも乏しかった。その頃の俺は臆病なただの魚で、寂しかったのかもしれないし、自分たちの生息地域ではめったに見たことの生き物だったから、物珍しかったのかもしれない。正直、見惚れた」  神様が遠い記憶を懐かしむ。  幸紘はその顔を美しいと想う一方で、視線が自分の知らない獣に対する、自分を見るときとは違う種類の愛情を見せているようで、胸の内がチリっと焼けた。 「狼ですよ。食べられたらどうするつもりだったんですか?」  自分の中に生まれた感情の名前がわからずに唇を噛む幸紘は長い前髪の隙間から恨みがましい目を神様に向ける。  神様はそんな幸紘の気持ちなど知りもしないで、楽しげな笑みのまま思い出を味わっていた。 「最初はそのつもりだったんじゃねえかな。でも足もつかないような深くて冷たい水に落ちて、分の悪い勝負なんかしなくても山の外には屍が山ほど落ちてた時代だ」 「戦争が?」 「みたいだな。初めて見たときはあちこち毛が抜けて痩せ馬みたいにヘロヘロだった体が、暫くすると丸々してきてた。たまに俺にもお裾分けくれたりして」 「人の死肉、ですか?」 「何の肉かなんかはシラネ。食えれば何でも喰うさ。そういう定めに生まれた身だって、前に言ったろ? 蟹とか蝦は俺より嬉しそうだったな。あいつらの数が増えれば俺の飯が増えるから俺も嬉しい。あいつが毎日届けてくれる食いもんのおかげで俺も、池に棲む他の生き物も助かってた。なにより狼が番犬してくれるから池に獲物を狙いに来る人間がいなくなった。それが一番助かったよな」 「番犬……」 「その当時の俺は神でもなんでもないし、生息域ももちろん違う。礼に何かを返すこともできないし、言葉も通じない。俺たちには共通項なんて何もなかった。でも姿が見えるとか、側に居るってことだけで安心できたし、日がな一日何もしなくてもなんか楽しかった。俺たちは種族こそ違ってたけど、確かに友と呼べる縁はあったと思う」  穏やかに語る神様に幸紘の胸の内がさらに苦い痛みでちりちり燃えた。姿を見るだけで、側に居るだけで、何も語らずとも視線を交わし合うだけで、自然と嬉しくなるような関係を、幸紘はただの友人の関係と割り切れなかった。  種族が違うから物理的な関係など何一つ成立しなくても、心は、命は繋がり合っている。そのように幸紘は感じた。  野鯉として警戒心が強く、神であるが故に距離を置き、人を愛しながら深く関わられることを拒んできた神様に、そんな相手が居たことが幸紘を苦しくさせる。その瞳がもう思い出になってしまった相手を懐かしみ、愛おしんでいればなおさらだ。美しいままで色あせない思い出を、後から挑む側が塗り替えるのは並大抵のことではなかった。  だが幸紘の胸に燃えたつ昏い炎は、たった一つの事実によってすうっと熱を失っていった。 「……百二十年前、その山津大神は、日河比売側についたんですよね?」
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