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「そうだよ」
先ほどまで花が綻ぶようだった柔らかな笑みが神様の顔から失われる。感情の窺い知れない平然顔だったが、割れた陶器の欠片のような冷たさがあった。
「どうしてそこまで深く繋がりあった相手と敵対する事になったんですか? 話し合いは、できなかったんですか?」
幸紘は問う。その背後から強い風が吹き抜け、神様の麦わら帽を揺らし八津山へと消えていく。その山が神様の背後から幸紘に迫ってくるように思われる。言葉を失った幸紘に、神様はやはり感情の窺えない顔で抑揚も無く言った。
「再会した時、あいつは山津大神と呼ばれる実体のない存在として山にあった。神と言うが神とは違う、それはもう俺の知っている優しい狼じゃなく、この国の山を統べるほどの『力』だけの化け物になっていた。自我も無く、ただ与えられた役目を為すための厄災の獣だ」
幸紘は奥山奇譚の一説を思い出す。
―――――淵上に八津山あり。頂に神在りて、名を山津大神と言う。大食にて、数多の命を屠り、山地水に至るまで大いに乱る。天が落ちんとし、人々は淵上の水神に助けを請い祈る。天津神降臨し、山津大神は八津山に封印せり。
八津山について、神様は山ごと八津山の山津神を殴りつけたときに削り取った山の土砂だと言った。
八幡神はそれを山津大神の墓標だと言った。
瀬織津媛は神様が人の神としての名を嫌っていると言った。
助けを乞われた水神とは誰か。
降臨した天津神とは誰か。
山津大神を殺したのは、誰か。
気がついてしまった幸紘を神様は見つめる。その顔は磔刑を受け入れる殉教者のようで、その胸の内を思って幸紘は唇を強く噛んだ。
「倒したのは俺だ。あいつは『聲』で世界を破壊しようとしていたから。それだけはさせられなかった。だから二度と蘇らないように、山の奥深くに封印した。一九〇五年の一月。秋声が教えてくれた。忘れもしねえよ」
びゅうっと強い雨を呼ぶ風が二人の間を通り抜け、幸紘の髪を激しく乱す。
その音に紛れて、悲しく遠く、幸紘の耳には狼の鳴き声が聞こえていた。
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