2 オオカミの眠る土地 ②

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「百二十年前、山津大神は日河比売の側についたのですね」 「側、か。そう単純な話では無いが、まあ、そうなる」  八幡神は少し視線を泳がせて言葉を探す。幸紘は少し首を傾げて彼の言葉を待った。  八幡神は何度か軽く膝を叩いて幸紘に向き直った。 「山津大神をどのようにお前は捉えている?」 「金色の狼の姿をした『力』の強い山津神の一柱だと……」 「そうか。俺がこの地に勧請された時の山津大神とは、人が呪いの毒と厄災を司る者として荒御霊を畏怖し忌避するように、獣の性として全てを飲み込み奪い尽くす存在として畏敬される祟り神であり、実体を持たぬただの禍々しい四つ足の獣の気配でしか無かったよ」  八幡神の言葉に幸紘は目を瞬かせる。  人の神が実体を持たず名によって顕現するのに対して、山津神は実体を持ったまま神格を得たものだと聞いていたからだ 「山津、神、ですよね? 分類上」 「そうだな」 「だとしたら実体があるはずでは?」 「厳密に言えばな。だが実体を持たぬ山津神がないわけではない」  ぱっと幸紘に思い浮かんだのは瀬織津媛だ。山津神白瀧の主とは、肉体の代わりに神との婚姻と称して生き神にさせられた女達の御霊を実体として八幡神に作られた。 「白瀧の主のことですね」 「聞いたか?」 「はい。八幡神と神様によって作られたと」 「そうだ。作ったから実体がないのではない。実体がない山津神の例外がないわけではないから、俺は作り上げることができた。極めて稀な話だがな」 「だから山津神は実体があるもの、という定義をしているんですね」 「特にお前の神様は呪の理解についてあまり得意ではないのな。どうしても説明は大雑把になる」  八幡神は眉尻を少し下げてははは、と笑う。その笑いはすぐにきりっとした真面目顔に戻った。 「お前の神様と交流があった頃は、山津大神の本性となる獣は当然ながら肉体を持っていたのだろう。それがどうして俺が知る化け物になったのか、その経緯はわからん」 「化け物、ですか? 神ではなく?」 「お前は御霊の構成について知っているか?」 「親父からは、常々」  全ての生き物は肉体と御霊で成り立っており、御霊は『命』と『魂』でできている。『魂』とは無限の生きる力であり、『命』とは有限の個性。亡くなった後『命』と『魂』は山という幽世に返るが、その後『命』は氏神となって永遠に土地を見守り、『魂』はその土地に生まれる次世代に引き継がれる。  幸紘は神職の家に生まれた身ではあたりまえの事を諳んじた。 「結構。だがそのあるべき流れから外れ、御霊が現世に止まり続ければ、どうなる?」 「怨霊になります」 「つまりそういうことだ。誰もが大いに恐れるからこそ大神の名を冠していたが、神ではない。神とは天啓を受けしものだ。天啓とは役目である」 「それも媛から聞きました」  神には役目がある、と瀬織津媛は言った。  それぞれの名、立場、縁起……そういったものから生まれた各の責務のことである。神としての『力』はその為に行使される、と。 「だが山津大神の天啓が何であったのか、未だに誰にもわからない」 「厄災という祟りを引き起こしたのに?」 「そのきっかけはわかっている。だがそれらを守ることが天啓であったのなら、そこには天啓を穢した事への因果と結果を諫めるための意思があり、対象があったはずだ。その観点からすれば百二十年前の厄災時、山津大神の所業はなりふり構わずだった」 「神様からは自我を失っていたと聞いています」  強すぎる力なんてものは誰も幸せにしない、とかつて神様は言ったことを幸紘は思い出す。それは『力』に対しての戒めであると同時に、山津大神という厄災の前例の事を言っていた。  神様によると御霊だけの存在となった山津大神は、人からその巨大さを八津山に象徴とされたが、そんな規模に留まらずこの国の山そのものの御霊だったという。地球を覆い尽くす風や光に自我がないのと同じようなものだった。  天啓という神としての指針も無く、『力』の限界を定める『器』もなく、強大になりすぎた『力』に飲まれ、山津大神は個としての自我を失ってしまったのだ。 「あれは神というより何らかの理由で肉体を失い、身が滅びても御霊が山に戻らずに強大化した怨霊であった」 「戻らなかった? 戻れなかったのではなく?」 「どちらであったのか、確かめる術はない。最後を看とったお前の神様なら何か知っているかもしれないがな。ただどんな理由があろうと、山津大神の御霊は幽世と現世の理の流れから外れた。早瀬川の主によると、肉体は自ら捨てたのだろうということらしい、が……」 「なぜ日河比売がそれを?」 「お前は山津大神を『日河比売の側についた』と言うたが、自我を失った山津大神に、敵だとか、味方だとか、山だとか、里だとか、獣だとか、人だとか、その意識などない。あれは純粋な『力』であった故に。早瀬川の主は、それをただの兵器として利用するために、随分と研究をしたらしい」  びゅうっと風が蔀の外で唸る。雨がざらら、と木造の建物にぶつかり、小さくみしりと音をたてて拝殿が軽く揺れた。
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