2 オオカミの眠る土地 ②

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「人を滅ぼすために、ですか」 「人の側に立てば、そう見えるかもしれん。だがなぜ早瀬川の主が破滅的な作戦を画策したのか、その経緯はそう簡単なことではない。俺がお前に百二十年前の諍いについて話すことを躊躇うのは、その部分だ」  八幡神は一旦言葉を区切ると、大きく静かに深呼吸をした。 「この世界は、俺たちのような者が目にすることも許されぬ程いと高きところに御座す神々が定めた『理』の中にある。それは完全なものではない。様々な矛盾を内包している」 「例えば?」 「典型的な例は善悪の問題だ。全ての事が白と黒で色分けされているなら苦労は無いが、実際は善悪とはただの価値のラベルで立ち位置の問題でしかない」 「一方の正義が一方にとって正義とは限らない、ってことですね」 「そうだ。俺はその為に俺自身と何度か戦うことになって往生したものだよ」 「それって、どういう?」  幸紘は首を傾げる。八幡神は先ほどより少し緊張を解いて冗談めかして言った。 「八幡大菩薩と言えば武士の守護神よ。多くは清和源氏を守る御旗に掲げられたが、桓武平氏の軍門にあったこともあれば、同じ軍門の同族同士で戦うこともある。その際、名前の数だけ同じ神が宿る。俺と、また別の俺が、それぞれの陣営の守護として戦うことになるのだ。その場合、正しき神とはどちらなのか?」 「勝った方、ですか?」 「結果論にすぎん。結果が出るまでは正義の所在など誰にもわからない」  八幡神は小さく肩をすくめて両手を広げる。そうして改めて姿勢を正し直した。 「それが人同士の争いであるならば、問題の決着は一世代一〇〇年もかからない。だが自然が、それぞれに正義を持つ神が相手ならどうだ。決着はいつつくのか」  八幡神の意志の強いきりっとした男らしい視線と問いかけに幸紘は返答に困って言葉を失う。 「山に住む者達の利益を守るのが早瀬川の主や山津神達の正義で、里を守るのが俺たちの正義だ。そして数百年の昔より山津神が自然の猛威で里を荒らし、人を傷つけ、攫い、恐怖させた一方で、人は、鉄を精錬、加工し、武器として使えるものを手に入れて以降、多くの山の獣たちを傷つけ、山を荒らし、切り開いてきた。どちらが正義か。どちらが悪か」  蔀を強い風と雨が叩く。びゅうびゅうと風が唸り、揺れた蝋燭の灯火が八幡神の厳しい顔つきに濃い陰影を刻む。 「すべては生きるため。その原理にしたがう行動の善悪を、決着がつく以前の過程で問うのは水掛け論にすぎぬ。それでも村単位のことならまだお互い様ですむ。里の広がりはアメーバと同じだ。ある程度の飽和を迎えれば、古い土地は切り離され放棄される。放棄された土地は山に飲み込まれ、長い年月をかけて完全ではなくともまた山に戻るだろうから。ところが今度は富国強兵政策の元、国家単位で国土開発が始まった」  柳川が一八九〇年代くらいから地理学が整備され始めたと言っていたことを幸紘は思い出す。資源確保目的の国土開発のためだ。その過程で里が山に返るスピードをはるかに超えて、それまで以上に多くの山が潰され、獣が殺された。 「早瀬川の主らが人間に対して嫌がらせをしていたのは常に人が鉄で野山を傷つける報いであり、いずれ自然との共存を忘れた生き方が人の生活に仇となって返されることに対する警鐘だった。やり方については問題が無いとは言えないが、その主張はわからないわけではない。かといって人が山に怯えず生きていくためには、人の山への干渉や抵抗といった営みも否定できない。こちらも規模や程度に問題がないとは言えないがな」  人の世界との縁を持つほど神と人の境に存在する使命と愛情の二律背反に苦しむ。かつて瀬織津媛が言ったことを幸紘は思い出す。  理性的で良心的な八幡神は、欲望で大地を、共に生きてきたはずの山の獣を傷つける人の営みを眺め、人の側でありながら自分たちの立ち位置に懐疑的にならざるを得なかった。  そして神様は本来山を守る山津神の立場であるが、人も世界の一部として考えるべきだという側に立つ。山津神として同胞達の怒りや苛立ちを理解しながら、人間の庇護を選ぶと言うことは、同胞への裏切りにもなる。針の筵であっただろうと幸紘は思った。 「正義と正義の対立。それを解決するための最終手段としての暴力。いと高きところに御座す神々が定めた『理』そのものが諍いを生む可能性を常に内包しているのだ」 「しかし問題を常に生み出すエラーを含んだベースコードを一朝一夕に解決できない以上、解決の方法は先鋭化するしかない」 「そうだ。『理』そのもの、つまり世界を破壊するか、眼前の矛盾をとりあえず『力』でねじ伏せるか」 「日河比売は前者を選んだ」 「最終的にその『力』を用いて人と交渉するだとか、征服するなどの考えは早瀬川の主にはない。やつの攻撃対象は人のみにあらず。この世界全体なのだから」  まるでテロリストである。どれほどの理由があってそのような暴挙に出たのか、幸紘は日河比売に会ったことがないので知りようがない。ただ底知れぬ怨嗟と絶望があるように思われた。 「その時のためにこつこつと山津大神を研究し、庇護し、少しずつ呪を用いて飼い慣らしておったようだ。国家による開発によって殺された多くの山の者達の祈りと怨嗟を全て飲み込み、その頃にはすでに山津大神の力はかなり膨れ上がっていた。実体という『器』の無い御霊は帰依する者の祈りと願いを底なしに身につけて力としていくようになるからだ」  幸紘はかつて神格と神位について神様から受けたレクチャーを思い出す。瀬織津媛だけではなく、格だけが高位の神に匹敵するほど高い者もいることを彼は示唆していた。山津大神のことだったのだ。 「人が殺し尽くす獣の数は際限が無い。静かな戦争は緊張を高めていた。そうしてついにこの国最後の狼が死んだとき、早瀬川の主の呪が発動し、箍が外れた」 「山津大神の本性を、呪に利用したんですね」
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