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一八七〇年代には明治政府の国土開拓の過程で北海道ではほぼ蝦夷狼が絶滅していた。山津大神が北の個体であったなら、一族はこの時に全滅したのである。そして本土にいた日本狼は一九〇五年の一月、奈良で最後の一頭が殺されて滅びた。
日河比売はこれら狼たち同胞の死と怨嗟を呪にして、山津大神に残っていたかも知れないなんらかの自制部分を完全に破壊してしまった。
「早瀬川の主は山津大神というただ『力』を、制御のできない状態で発動させて野に放った」
「何が起きたんですか?」
「大地震だ」
「地震? そんな記録はどこにも……」
「戦後処理の中で、瀬織津媛がすべての人々の記憶から、大地から、一切の痕跡を消したからだ」
かつて人々が彼女に強く願うとき、天変地異をも引き起こすほどの力を持つ高い格の神だと八幡神は言った。その実体は史実をも消し去ってしまうほどであったということに、幸紘は素直に驚いて言葉を失った。
「山津大神という意思のない『力』は破壊するためだけの純粋な兵器であり、言うなれば最強の矛だ。それを止めるには最強の盾がいる。山津大神と同じ、無限に人の祈りを、願いを、欲を吸い上げ、それを守りの力に還元できる『器』無き神が」
「白瀧の主……瀬織津媛ですね」
「禁足地の祟り神として作り上げたときにはそんなことになるなどとは思いも寄らなかったがな。図らずもその性質のために白羽の矢が立った」
山津大神が山に生きる者達の祈りと怨嗟を引き受けて強くなるように、瀬織津媛という人の神の名を受けた白瀧の主は災害と恐怖から免れたい人々の祈りと欲望を人の神として引き受けて『力』をつけた。だが最終的には人よりも彼らに傷つけられた者達の慟哭の方が数の上でははるかに多かった。それを『力』につけた山津大神の嘆きの咆吼はこの国の、しいてはこの国の根に繋がる大地を揺るがした。自我を失い本能に支配された厄災の獣としての山津大神は、屠った人も獣も崩れた里山も、敵も味方も何の区別もなく、全てを食らいつくし始めたのだ。
「やつを殺さねば、人に限らず、全てのもの、全ての大地に大惨事が引き起こされるのは間違いなかった。だがその大災害から瀬織津媛や俺は害を被る全ての御霊を、世界を守るために防戦するしかなかった」
「だから神様が……山津大神を殺した」
八幡神は深く頷く。吹き込んだ風が蝋燭の薄暗い灯の刻んだ八幡神の濃い陰影を揺らした。
「それができるのは彼と深い縁を持つ自分しかいないと、今は瀬織津媛に返した名を受けることを自ら申し出た」
「その名は?」
「口にすることはできぬ。口にするにはあまりに強く重い。この国最強の火神、軻遇突智を屠った滅びの神の流れを汲むものの名だ。名を受ければ絶対的な強さを得るが、代償として生物的な共感力を失う。闘いの狂気に支配され、目的が達せられるまでは目に映るもの全ての御霊を狩る使命に支配される殺戮機械と化す。俺でもその名を負うのは躊躇われるほどだ。だがお前の神様はそれを受けた」
「友を、殺すために、ですか?」
「友を救うために、だ。お前の神様は強靭な山津神としての実体を持ち、人の神として人の祈りを無限の力とする、純粋な神殺しの刃の『力』を受けし者となり、瞬間の神格は瀬織津媛をも超えた。最強の断罪神の誕生であったよ」
狼の哀哭と暴走の苦しみを止めるためには、『力』に振り回される苦しみから解き放つには、そうするしか無かった。
引くに引けないものを守るとき、それがどれほどの犠牲を払おうと、力には同じ力で対抗しなくては勝てないこともある。全ての勝利が晴れ晴れしい開放感と充実した達成感に満ちているわけではない。ザラザラとした後悔と罪悪感に満ちた勝利もある。幸紘の中でかつて瀬織津媛が言った言葉が思い出される。
神様は最強の断罪者として、かつて誰よりも心を許した親友の『命』を奪って打ち倒し、八津山の奥深くに封じた。それは救いだったのか、それとも罪だったのか。
長く生きるほど、好きだけじゃ、守りたいだけじゃ、指からこぼれ落ちてしまうことがたくさんでてくると、時の流れは残酷で非情だと、かつて覚悟について神様が言っていた。それが生きることの全てだと嘆き、諦め、噛みしめて、残酷な時の流れを神様は歩んできた。
仕方ない、と神様が無表情に過去や未練を言霊で断ち切ろうとする姿が何度も幸紘の脳裏をよぎる。
『力』を手に入れれば、神様の心にそんな嘘をつかせずにすむと幸紘は思っていた。しかしすでに神様自身が誰よりもなによりも強い、神をもねじ伏せる『力』を手に入れても、向かってくる運命までもねじ伏せることはできなかった。
友を殺すために与えられた人の神の名を、以後かたくなに拒み、否定し続けた神様。それは狂った『理』に生きる絶望の中で、唯一の抵抗だった。
「なんて……なんて、辛い……」
幸紘の胸が痛んだ。癒えぬ心の傷からにじみ出る苦しみを無表情で覆い隠した神様の姿を思い出す。幸紘は俯き、単衣の合わせをぐっと握ってこみあげる悲しみを耐える。八幡神がその背中を優しくゆっくりと掌で叩いた。
「山津大神を倒した後、以後一〇〇年近く、俺たちはお前の神様が笑ったところも怒ったところも見たことはなかった。仕方なかったとはいえそれほどに過酷な事をあやつに強いたのは、今でも気が咎めていることだ。だがな、お前の誕生で、俺たちは皆救われた」
「俺、の?」
幸紘の胸元を握る手が緩む。顔を上げると八幡神が穏やかに淡い微笑みを口元に浮かべて軽く頷いていた。
「お前が生まれ、浩三から淵上神社の跡取りだと見せられたその子の琥珀の目を見たとき、あいつはやっと笑えた。お前の神様はそれはとても嬉しそうに言ったのだ。山津大神の、俺の知る狼の目に似ている。まるで生まれ変わりのようだ、と」
八幡神にそう言われ、初めて神様を見たときの事が、その時の神様の言葉が、幸紘の中に鮮やかな輪郭を描いて思い起こされた。
嗚呼、やはり、なんて綺麗な瞳だろうな。
金色。十五夜に輝く満月みたいだ。
そう言った神様の、澄んだ水底の黒緑が幸紘の金の瞳とまっすぐに繋がる。涼やかな柳線形の瞳に精一杯の慈しみと喜びを込めて神様は幸紘を愛おしく眺める。その美しく、優しい眼差しに幸紘は魅入られた。
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