2 オオカミの眠る土地 ②

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「俺は、山津大神の生まれかわり、なんですか?」  だとすれば神様の瞳と視線に込められた心情に対する既視感の理由も納得できる。だがそれは正気を失えば世界を滅ぼすほどの『力』を秘めているということでもある。尋ねる幸紘の声が期待と不安で震えた。 「それはあり得ない」  八幡神はははは、と笑い飛ばした。緊張していただけに幸紘の肩からがくりと力が抜ける。八幡神と幸紘はゆるゆると再び正座で向き合った。 「戦後処理については、媛が史実を改竄することのほかに、敗者に対するいくつかの決め事があった」  八幡神はぐっと握った右手の拳から、人差し指をゆっくりと左手で開いた。 「一つは早瀬川の主の処遇だ」 「前になり手が無いから川の主に残留させたって言ってた件ですね」 「それは本当の理由では無い」 「違う?」 「例えば脳の中に大きな腫瘍や水の塊があったとして、邪魔だからとそれを一気に取り除いてもよいものか?」 「まず……いんですか、ね? よくわからないんですが」 「影響は大きい。下手をすれば心臓が止まってしまうこともあるだろう。世界は微妙なバランスで成り立っている。存在するにはするだけの意味があり、だからこそ影響が大きいものほど取り除かねばならない場合は慎重にせねばならない。山津大神にしろ、早瀬川の主にしろ同じ事。力の大きさを鑑みれば完全に封滅してしまうわけにはいかなかった」 「だから敢えて生かしておいたんですね」 「何も知らぬお前に真実を話す訳にはいかなかったから、あのように言ったがな。早瀬川の主は媛が言ったように日河比売の名でその力を弱体化させ、身柄は瑞淵八幡宮預かりになった」  次に八幡神は中指を解いた。 「二つ目は早瀬川の主に組した山津神と山津大神の処遇だ。これらはお前の神様がまとめて八津山に埋め、二度と目覚めぬように封印したが、前述の理由で完全に封滅はできない」 「彼らの守ってきたものが弱っていくからですね?」 「そうだ。その『命』は長い時をかけて瀬織津媛の浄化を受けて強制的に精に分解、転換され、山津神たちが守ってきた土地や植物などへに少しずつ少しずつ循環させることで最終的には大地へ還元されることになった。この際、媛は淵上神社の主神として勧請され、淵上神社は八津山の封印の要そのものとして成立したのだ」  だから神社が消えてもかまわないのか、と神様にかつて彼女は尋ねたのだ。  神社が消えれば八津山の封印が解けてしまう。封印が解ければ残った遺恨が再び再燃し、大厄災の再来の恐れがある。だから神社が必要で、主神の瀬織津媛を生かすために人がいる。神社本庁に属さない淵上神社は形式的な村の鎮守でも地域振興のための客寄せパンダでもなく、村と人の実務呪術的鎮守という八津山の封印の一部をなす機関組織部だった。 「淵上神社の縁起は神嫁ぎのためではなかったんですね。媛からは最後の贄に定められた巫女が、神嫁ぎを終わらせるために望んだから顕現したと」 「淵上神社の初代宮司になった女だな」 「命を賭したと聞きました」 「死んではおらん。片目は潰したがな、自分で」 「自分で?!」 「自分で立候補して、自分で新月の夜にやってきて、自分で目玉を潰して、自分で足を切り落とそうとした」  八幡神と神様は人に干渉しないという自戒を破って慌てて止めた。そんなことしなくても話を聞くからと特別に姿を晒して説得した。本当に嫁として狙われていたのはその娘の大切にしていた小さな妹だった。体が弱くて農業には向かないからと両親が村に供しようとしたが、そんな馬鹿げた話があるかと身代わりを引き受けたという。 「剛毅な女性ですね」 「神嫁ぎとは未通女か生息子であれば、基本誰を連れて行くかという規定はない話だからな。立候補するというなら、それでも問題はない。命知らずの物好きな話ではあるが」  八幡神は苦笑いを見せる。  彼女の願いに従い、八幡神と神様は早瀬川の主が山津神を使って人を襲わないように里を守りながら、人が必要以上に山を侵さないように線引きし、境に緩衝地として双方出入りまかり成らんと禁足地を定めることにした。白瀧の主を作り出したのは、彼女を形作る犠牲者の娘達の怨嗟と御霊を魂核とする荒御魂の『力』によって、人を禁足地に寄せつけないようにするためだ。  人にして人にあらず、山にして山にあらず、而して怨霊でもない呪で造られた神を人は当然恐れたが、その得体の知れなさは山のものたちに対しても牽制の効果があった。そして巫女となった女はかつての作業小屋を娘達の弔いのために社へ造成し、そこで白瀧の主に仕えて短い人生を終えた。 「この地を救う礎を作った名も無き英雄よ。歴史の流れに消えるにはもったいない英傑であったがな」  ただ彼女にしろ、淵上神社にしろ、縁起に残すには記録を改竄する瀬織津媛との関わりが不可欠になる。残せば山津大神の厄災の事実に繋がりかねない以上、うやむやにするしかない話だった。 「戦後処理の最後は『清』の気を宿した『魂』の処遇だ」  八幡神は薬指を開くと同時に、伸ばした三本の指をまとめて、左手に包んだ。 「八津山に封印したのでは?」 「それは『命』だ。御霊は『命』と『魂』より成り、『魂』は『清』をもつものともたぬものに分かれる。問題はその『清』の気を持つ『魂』を如何にするか、ということだった」 「『清』の気って、神様達が持ってるという、なんか心地いい感じの気のことですよね?」 「お前の神様か、そんな曖昧な説明をしたのは」  八幡神は口角と眉尻を大いに下げた。
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