1 くちづけは罪の味 ①※

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1 くちづけは罪の味 ①※

 神様とくちづけは、する。 「ん……っん」  今も幸紘は神様の求めるまま、唇を重ねて、舌を交わし、混ぜ合わせた唾液を、『清』の気を交換し合う。なのに隣り合って座ることで触れる肌が、距離を近づけるために重ねた指が、繋がりあった口腔の粘膜が、幸紘の高まる熱と神様の低い体温の境を失うほどに交わっているのに、それを幸紘も神様もキスとは言わない。それは『魂』を癒やしあうただのケアであって、キスじゃない。 「ぷぁ……は」  幸紘から離れた神様の澄んだ黒緑の瞳が精一杯の慈しみと喜びを込めてまっすぐに見つめているというのに、見返す幸紘の金の瞳が欲情にしっとりと潤んでいるというのに、二人の関係は恋愛ではない。  神と禰宜。仕える主と主の心を和ませて加護を願う主従関係。これ以上のイヤラシい戯れや、その意味を持たせた接触が到底許されるわけもない。 「風呂、行ってきます」  幸紘の体の中心は緩いジャージの中で神様の全てを欲して熱く滾っていた。欲望のサインを悟られぬようにするっと立ち上がると、着替えを手にして部屋を出る。最上階からバスルームのある一階へ続く階段は暗い。一段一段、悪魔の罠に自ら進む諦めをもって幸紘は降りていった。  リビングダイニングには誰もいない。幸紘はバスルームの脱衣所に着替えを置いたが、服は脱がずそっと玄関へ向かう。クロックスを履くとバリアフリー対策でゆっくりと静かに閉じる扉を抜けた。  空高くから白い満月が見下ろしている。あの獣の声は聞こえなかった。代わりに鷺か鹿か、甲高い声が山に木霊している。  狒々が山守になってから、田畑の端が何者かによって少々被害を受けることがあっても、獣害防護柵が獣たちによって壊され、手の施しようがないほど田畑が荒らし尽くされたり、獣に人が襲われたなどという話は聞かれなくなった。畑の端っこ程度の報酬で仕事を順調にしてくれているなら上々だった。  幸紘は大きな石鳥居とそこから御社殿に続く石畳をめざして歩く。日暮れてからは決しては入るなと浩三からは言われた大きな石鳥居を過ぎて御社殿へ向かう。随神門を潜ると本殿の奥で薄ぼんやりとした灯火が格子障子の御扉に女の影を映し出していた。  幸紘は拝殿に上がって二礼、柏手を二回打つ。それを合図にしたように本殿の奥でずるりと蛇の体躯が蠢いた。 「今宵も来たな、若造」  御扉が隙間程度に開き、中から無数の白い腕の触手が幸紘に向かって近づいてくる。幸紘は胸の前で手を合わせたまま目を閉じて小さく唱えた。 「掛まくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等、諸の禍事罪穢れ有らむをば、祓へ給ひ清め給へと白す事を聞食せと、恐み恐み白す……」 「こんなときばかりに聖職面か? このビッチめ」  瀬織津媛が御扉の奥から鼻を鳴らす。白い腕が幸紘に絡みつき、縋り寄り、撫で摩り、弄って、囂々と燃える幸紘の黒い陽炎を食らいつくしていく。  気持ちが、悪い。  平衡感覚が麻痺し、気が遠くなる。自分の力ではどうすることもできずに、圧倒的な数の力で押さえつけられ、翻弄され、剥ぎ取られ、探られて、奪われる。苦しさに意識が遠退く。それでも暴虐の支配はやまない。何度経験しても決して慣れることのない拷問だ。なのに、幸紘はそれを拒めずにいた。  この罪が、奪い尽くされればいい。そう祈り、望み、意識を手放した。 「どのくらい、倒れてました?」  幸紘が次に目覚めたとき、何もない寒々しい虚無感の中にいた。ゆっくりと起こした体がだるい。衣服がひどく乱れていた。痛む頭を押さえ、長い前髪をかきあげる。御扉の向こうで大きな尻尾がするりと動いて、細い尾先をゆらゆらと揺らした。 「ほんの数分だ。ここへ来てから四半時もたっておらん」 「そりゃよかった」  幸紘は立ち上がり、ゆるゆると乱れた衣服を直す。長く戻らないと神様が心配する。身に溢れた『厄』が手に負えず、その始末のために瀬織津媛と通じているなどと幸紘は知られたくはなかった。  背後から自らの体躯に頬付えをついた瀬織津媛が声をかけた。 「お前、溜まったら俺んところくるんじゃなくて、風俗でも動画でもエロ本でも良いから、いい加減に自分で始末つけてこいよ」 「できるときは風呂場で始末つけてますよ。その程度で収まらない時があるだけです。だからって知らない人との接触なんてありえませんね。ネットで修正無修正問わず内外のエロ動画とか、いろいろ漁ってみたんですけど、こっちも全然興味沸きませんでした。俺、マッチョが好きなのかと思ってゲイビデオまで見ちゃいましたよ」 「どうだった? おもろい?」  御扉の隙間から目玉がにょいっと出てきて、興味津々に聞いてくる。幸紘はうんざりとした顔で目玉に振り返った。 「興奮とか減退とか以前に、でかいナニがあんなところに入るんだな、くらいの人体の不思議的驚きしか……」  二週間ほど前まではぶっかけAVなんて言葉で真っ赤になっていた男が、無表情でぺらっと口に出す台詞に瀬織津媛の目玉が半目になる。 「お前、最近の下世話さでいったら俺を責められんぞ」 「似てきたんでしょ」 「そろそろお前のチェリー熟れすぎて、俺は貰い飽きてきたんだけど」 「勝手なことを。そんなこと言っても俺の『厄』を喰うたびに、メシウマとか思ってるくせに」  幸紘はふいっと瀬織津媛に背を向けると、何事もなかったように拝殿の縁に座り、クロックスに足を入れた。 「だいたいからして媛が俺から『厄』を手に入れるために、俺の本心を意識上へネタばらししたんですよ。それがなければ俺が媛の世話にならなくてもすんだのでは?」 「なんでも俺のせいにする」 「実際そうじゃないですか」  幸紘は小さくため息をついて立ち上がる。その背に瀬織津媛は格式張った言い方で声をかけた。
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