1 くちづけは罪の味 ①※

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「誤魔化してばかりだと、セイシンエイセイジョウよろしくないんじゃないでしょうか?」  瀬織津媛の言葉に幸紘が振り向く。眉間に険しい皺を寄せ、長い前髪の中から金の瞳で睨み付けた。瀬織津媛はいつも通り怯むことはなく、いつものようにずけずけした口調で言った。 「お前がやってるのは初エッチに失敗した女がその後ヤリマンになってんのと一緒じゃねえのか、って話。見てて痛々しいんだよ。いっそのこと正直に告っちまえよ」 「神様に? 魚の雄ですよ」 「魚類のエッチは基本無差別ぶっかけだ。集団でナニをかけまくるから、隣に雌狙ってる別の雄がいるとか、どさくさに紛れて汁男優が寝とってるとか有りな環境な訳だし。好きとか嫌いなんて人間のめんどくさいこだわりなんか捨てちまって、キモチよく出せりゃいいっていう生物の雄の全てに共通した本能に従っちまえば? 人には優しい神様だ。ワンチャン受け入れてくれるんじゃねえの?」  魚の話だ。  わかっているはずなのに、あの神々しい美しさが乱交を楽しむとか、親密さの極みともいえる行為の中で自分以外の存在と乱れるなんて状況を言葉にされて、頭に絵面が浮かびもしないのに幸紘は条件反射的にイラつく。口調がどうしても険を帯びた。 「それと俺とどうにかなってもいいなんて話とは全然別でしょ」 「どうにかなってもらっても困るが、今のままが良いというわけでもないだろ。神道はけじめの教えだぜ。神職やってくんだったら気持ちとか関係性の上で、スパッと仕分けをつけろっての。それとも、怖いのか?」  瀬織津媛が尋ねる。幸紘は何も言わないまま、顔を背けた。 「……当たり前じゃないですか」  ぼそり、と呟き、幸紘はさっさと背を向けて家に戻っていく。  幸紘がほしいのはお情けや博愛では無いのだ。キリストが右の頬を打たれて左をはいどうぞと差し出したような愛ではなく、右の頬を打たれた意味を考えた上での返答がほしいのである。だが笑顔のグーパンチで打ち返されるような絶望的な返答しか思い浮かばないから、幸紘は燻る想いを吐き出せなかった。  帰宅後すぐに飛び込んだバスルームで、項をたたく熱いシャワーが無数の腕に陵辱された感触を押し流していく。目を閉じて、神様の滑らかな肢体や艶やかな唇を思い出したが、ほんの数十分前の興奮が嘘のように何も感じなかった。  濡れ髪もそのままに静かに階段を上る。三階まで上ると幸紘の部屋の白い照明は消えていた。中に入り、薄暗い部屋を感覚だけを頼りにベッドへ向かう。そっとベッドサイドに座って、濡れ髪を首に欠けたタオルで手荒く拭う。カーテンの隙間から白い満月の光が一筋、枕元に差し込んでいた。 「最近長風呂だな」  布団の中から月光に照らされた白い面が覗く。幸紘はその顔に振り返った。 「起こしてしまいました?」 「もともと眠りは浅い」  神様は小さく欠伸をする。そう言いながらも最近の幸紘の出勤時にはすっかり正体を失って寝コケていた。安心しているのだろうと思うと幸紘は嬉しかった。 「今日は拝殿に行ってたんです。媛に奪われた煙草を取り返しに」  半分は嘘だけれども半分は本当だから、不自然な感じにはなっていないはずだった。  神様が掛け布団を開けて中に誘ってくれたので、幸紘は半乾きの髪のまま中へ入る。ほんのりと暖かい中で、月光の雰囲気のせいか、毎年夏になると鏡池に咲く睡蓮の爽やかに甘い香りがいつもより強いように感じた。 「神様でも、ニキビってできるんですね」  幸紘は隣で横たわる神様の目元に点々と白い小さな出来物があるのに気がつく。月光の下で見ると影が泣き黒子のようで婀娜っぽい。指先で触れると堅く、少し力を入れるとびくっと神様が震えた。 「痛かった? ごめんなさい」 「あ、いや、いい。……これは、季節的な、もので、すぐ……消える、し」  ふいっと視線を逸らし、神様はごそごそと身を隠す先を探して布団へ潜り込む。神様の正体が分かるまではこの行動に逐次ドキドキしていた幸紘だが、野鯉の警戒心が強いことを知ってから、身を隠そうとする習性なのだと理解して、以前ほど動揺しなくなっていた。  それでも、神様の一挙一足に幸紘の心はいつも騒めいてしまう。  戦う時以外、下手をすれば戦うその時ですら、平然顔の神様だ。そんな神様にも理性を乱されて複雑な表情をするような気持ちはあるのだろうか。食べ放題の時に感じたものと同じ疑問が再び湧き上がる。  もともとの体は魚だ。魚であれば春になって発情して、雌が生む熟れた卵に精子をかけて、それであとは時々縄張りを守って小競り合いする程度で概ね平穏に食べて寝るだけの、そういう日々である。人の体を持ったとしてもそうなら、その状態を幸紘は少し羨ましく思う。瀬織津媛は好きとか嫌いなんていうのは人間のめんどくさいこだわりだと言ったがまさしくそうで、二四年慣れ親しんだはずの自分の体を幸紘は今完全に持て余していた。 「ねえ、神様?」 「ん?」 「神様は、人間の体を手に入れてから……その……」 「なんだよ?」 「……番になるという意味で、人を好きなったり、人から好きになられたり……しなかったんですか?」  神様が布団の中から顔を出す。訝しんでいるのか、怒っているのか、困っているのか、なにを思うのか、一切伺い知れない平熱顔だった。 「ないな」  そんな顔ですぱっと言い切る。食べ放題の時もそんなことを言っていたのを幸紘は思い出して乾いた笑いが出た。
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