1 くちづけは罪の味 ②

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1 くちづけは罪の味 ②

 昼休憩のチャイムが鳴り、幸紘はキリの良いところで手を止める。神様への欲望を昇華するために少々キツい残業を繰り返していたので、これ以上業務量を加速させると早々に手持ち無沙汰になってしまうのが予想できた。  自宅から持ってきたスティック系の菓子パンを手に製図室から出る。隣接した食堂に入る前にコーヒーを買って扉を開けたが、 「よ、休憩?」  そう言って幸紘に笑顔を向けて手を上げた畑中の他に、同じ制服の若い女性事務員の姿を三人認めて、即座に目の前の扉を閉めた。くるりと回れ右で背を向けて、製図室か駐車場の車へ向かおうとしたところで、制服の端を捕まれて前に進めなくなる。振り向くと畑中が全力で引き留めていた。幸紘は畑中に半泣き状態で訴えた。 「言いましたよね? 俺、人間が苦手だって! それもほっとんど面識のない女性事務員さんとか」 「でも、ほら、ものは試しって話もあるしさ。遠野君、市主催の婚活パーティーにも行けたじゃない」 「殲滅的負け戦でしたけどね!」 「知ってる。だから逆に彼女らのお願いを断れなかったのよ。君がフリーだってわかると、途端にもうやる気満々でさぁ」 「無理ですって!」 「別にこのうちの誰かと付き合えとか、そういうこと言ってんじゃないの。遠野君は極度のコミュ障だから、よっぽど覚悟しないと会話の糸口の段階で痛い目見るってあたしも随分反対したんだ」 「その言い方もどうなんですか?!」 「でもわかって。反対するほどあたしと遠野君の仲を疑われちゃうのよ。それはいろいろと業務上めんどくさいからさ、あたしのことを思うなら、今日だけ! 今日だけで良いから!」  幸紘は口の中で喉から込み上げる苦虫を死ぬほど噛みつぶして額を押さえる。  畑中には恩がある。  入社した当時の幸紘は今よりもひどいコミュニケーション不全で、視線を合わさないどころか定型の挨拶の言葉ですら一切出てこなかった。大人社会へ斜に構えていたわけでも、最低限の礼儀を知らなかった訳でもない。純粋に家族構成人数以上の閉鎖空間に常時参加するというシチュエーションが怖かったのだ。  初期スキルとしてのCAD技術があったので仕事を始めるには支障がなかったが、会社勤めが続くか否かの点においてスキルの有る無しは第一の要素では無い。顔見知りが多い田舎の工場などでは特に、密な人間関係をやり過ごせるか否かが大きなウェイトを占める。  本人はもちろん誰もが、早々に幸紘は完全に孤立した結果、退職するだろうと思っていた。それを畑中は仲立ちし、お願いして仕事を任せ、周囲に掛け合ってくれて、今がある。浩三が手を回した上司からの業務命令で、同期入社した彼女は幸紘が辞めたら連座でクビになる恐れがあったからというのがあったとしても、やはり人並みの社会参加ができるようになったのは畑中のおかげだ。数少ない友人と言える存在でもある。断ることはできない。  幸紘は深々とため息をついて食堂へ戻った。  女性四人の歓談を幸紘は畑中の少し後ろからもさもさと菓子パンを食べながら眺める。飲み会のように居場所に迷うことはなかったが、彼女らの会話の中へ積極的に参加しようなどとはこれっぽっちも思わなかった。  時折、女性達が会話の水を向けたり、視線で幸紘に意識を向けてくる。気の利いた返しが思いつかず「ああ」とか「うん」としか幸紘の口からは出てこない。気を遣わせているのはわかっている。それでますます幸紘は自分が嫌になった。 「遠野さんは、今、彼女さん……いるんですか?」  空気が抜けてヘコんだボールが転がるような会話のやりとりに痺れを切らして、一番若い事務員が冗談めかして幸紘に尋ねる。質問形をとっているが、いない場合の作戦を言外に秘めているのが隠しきれていない。ちらっと視線を向けた畑中の興味深そうな視線から、この子が以前話に出ていた入社二年目でお兄ちゃんがいる子だろうか、と幸紘は思った。見れば他の女性も含め、視線全てが興味深く幸紘に向けられていた。質問した女の子は口元に笑みを作っていたが、目が笑えていなかった。  結構、清水の舞台から大ジャンプ級の質問だったんだろうな、とその勇気を幸紘は純粋に羨ましく思う。彼女のように神様へぶつかっていく勇気など幸紘にはない。せいぜい昨夜のように当たり障りの無い過去を探る程度だ。 「彼女は……いない」  幸紘の答えに畑中以外の女性陣の顔があからさまにぱっと明るくなる。だが、 「好きな人は……いる、けど」 「いるの?」  真っ先に幸紘の言葉に畑中が食いついた。彼女は目をむいて椅子から立ち上がる。ガタンとパイプ椅子が倒れて、全員が怪訝な顔で畑中を見あげた。 「あ……はい」  幸紘が目を瞬かせてそう言うと、畑中は何かを察したのか、倒れたパイプ椅子を戻してそっと座り、視線を明後日の方へ向けた。 「どんな人ですか?」  事務員の一人が尋ねた。人ではないのでどう説明したものかと幸紘はしばらく黙ったが少し俯いてぼそっと、言った。 「綺麗な……人、です」  幸紘の中で神様は正装色に包まれて凜と佇み、大祭の空で優雅に舞い、鏡池で艶っぽくしな垂れる。口いっぱいに食事を詰め込んだ顔で笑い、布団の中からちらっと上目遣いで見上げ、うっとりと金の瞳を愛おしく眺める。思い出すだけで心臓を鷲掴みにされて甘い苦しさが込み上げる。  ほろ苦いチョコレートを口にしたような微笑みが幸紘の整った口元を綻ばせる。職場では誰の前でもおおよそ口にしたことはない穏やかな口調で、耳を擽る低く濡れた声で、幸紘はゆっくりと一つ一つの言葉を紡いだ。 「人に優しくて、強くて、潔くて……いつも俺に心配かけまいとしてるから、逆に守ってあげたくなる……年上の人、です」  しんとした後、質問した事務員の女の子が急に立ち上がる。彼女の座っていたパイプ椅子がガタリ、と小さく揺れた。 「……あたし、もう、休憩、終わり……だから。戻ります、ね」  声が震えていた。彼女が食堂を出て行くと、他の事務員も似たような理由をつけて彼女の後を追ってそそくさと場を後にした。  残された畑中と幸紘はそれぞれ明後日の方向を向いたまま座っていた。二人の間で微妙な空気が沈黙となって漂った。
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