1 くちづけは罪の味 ③

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 加奈子は何か言いたげな口元をもごもごと震わせたが、持ち込んだ問題集や参考書、ついでに神様が買ってきた食べかけの袋菓子まで奪って、ぷいっと背を向けて無言で部屋を出て行った。  バタン、と少し強めの音を立てて扉が閉まる。幸紘は神様の厚い胸の筋肉の感触を惜しみつつ、そうっと離れた。 「すいません。実は家族から逃げるために神様をダシに使ってました」 「いいんじゃね?」  怒るかと幸紘は思っていたが、神様は思いのほか軽い調子で言った。 「あながち嘘でも無いんだし。デート、だったろ? オシャレして、飯食いに行って、車で遠出して」  神様はさらっと言ってニヤニヤ笑うと、ベッドサイドにすとん、と座って足を組んだ。 「加奈子が見合い話を気にしてたのは、光子の勘繰りを受けたからだけじゃなくて、お前が誰かに盗られるんじゃないかって、不安だったからだ」 「不安?」  幸紘は手にしてた煙草を再び銜えて顔を顰める。チェアにゆるゆると座った。 「……あり得ないでしょ?」 「ユキは本当に人に興味がないんだな」 「だってあいつ、俺のこと嫌いですよ。いっつも暗い、キモい、ダサいしか言ってきませんもん。悪意の塊ですよ」 「素直になれないだけだよ。怒ってたのも騙されたからじゃねえの。心配だったから、何事も無くてほっとしたんだ」 「それがあれ?」 「お前のこと、大好きなんだぜ、オニイチャン」 「だったらなおさらあり得ないでしょう、あの態度」 「あいつはお前を傷つけた自分をまだ許せてないから素直になれねえだけだ」 「傷つけたっていつの時の話ですか? あいつが俺を言葉の暴力で殴らなかったときなんてないですからね」 「覚えてねえ? キモチワルイって、お前に壊した人形なげつけたの」 「あ……」  幸紘は忘れもしない一四年前のことを思い出す。それが幸紘と家族の間に決定的な亀裂を生じさせた。 「加奈子はまだ幼くて、心が弱かったから、ごめんなさいって言えなかった。あの時まではお前は跡取りとして親にちやほやされてたしな」 「ちやほや? 覚えがないんですが」 「まあ、総領(そうりょう)ってのは昔から親からの恩恵に無自覚なもんだ。妹ってのがその反動で意地っ張りになるのもよくあることだよな。基本、兄よりも愛されてないと思ってて、心が強くなれない分。あの時も大好きなお兄ちゃんの作ったものを壊した罪悪感に耐えられなかった。だからお兄ちゃんがキモチワルイものを作ったから悪いんだって責任を転嫁した。その時の自分が卑怯だったってことも、そのせいでユキが自分に背中を向けてしまったことも、ユキと家族の関係がギクシャクしたのも、あいつは全部自覚してて、ずっと後悔してんだよ」 「じゃあまず謝ればいいのでは?」 「素直じゃねえんだよな。一回こじれるとなおさら。性格もあるんじゃね? ツンデレっていうの? ああいうのをさ」 「知るかって話ですよね。俺が兄だから許してくれるとか、甘えんなよ」 「そりゃそうだ。だから許してやれとは言わねえよ。だけど、嫌ってるわけじゃねえってことは理解だけしてやれ。同意するかしないかは別だ」 「理解と同意ですか?」 「そう。神職には必要なスタンスだ。目の前にあるものを抗わず、否定せず、誤魔化さず、自分の中に落とし込む。でもそれを受け入れるかどうか、許すかどうするかってのはまた別、ってのはさ」 「瀬織津媛も、そんなことを言ってました」 「言うほど簡単な話でもねえけど、いろんなやつを恨まず恨まれずに付き合っていかなきゃならねえからな、神職って。理性と感情の飼い慣らし方の基本じゃねえかな」  神様はそう言って幸紘を見る。眼差しには小さな子供を見るような慈愛があった。  人に寛容な神様。なのに幸紘はその名を暴き、形に閉じ込めて、永遠に綺麗なまま、誰にも見せず、どこにも行かせず、ただ自分一人のものとして側に捕らえておきたいという欲望を抱いている。毎夜毎夜堕落した妄想を夢見ては身体を持て余していることなど神様には想像できないに違いなかった。  浅ましい独占欲だ。それを恋とはそういうものだから仕方ない、と事実として理解していいのだろうか。それともやはり神聖なる神への懸想は全て罪であると、その罪を幸紘は犯していると、そう理解したほうがいいのだろうか。事実を受け入れろというけれども、では今幸紘が立ち置かれている現状は恋か罪か。  唇を交わすというただの行為だって、ケアと捉えるか、キスと捉えるか。  なにもかも、幸紘にはまだ理解の段階ですらなかった。
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