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3 こどもとかみさま ③
月の白い光が縁側に続く障子を通して淡く部屋の中を照らしていた。その明るさに幸紘は目を覚ます。
隣に子供の姿はなかった。寝る前には確かに浴衣姿の子供がいたはずだったのに。
どこへ行ったのか、と幸紘は布団から起きる。不思議と寒いとは感じなかった。台所にも風呂場やトイレを確認するが見当たらない。階段を上り、社務所の宮司室を覗く。受付の窓にシャッターが降りているせいか真っ暗で、何の気配も感じなかった。
社務所の玄関が細く開いていた。白い光が一筋、暗い足下に導を描く。幸紘はその導を辿るように、白草履に足を通して外に出た。
境内の中を、季節外れの蛍が乱舞していた。それが蛍でないのはすぐにわかった。明滅することがない。山で生まれ山に還る、大自然の中で循環される土地の命、万物の魂だ。
その中心に白い単衣に身を包んだ人が立っていた。
卵のような形の顔。絶妙なバランスで配置された墨を刷いたような細い眉、切れ長の目、凹凸の少ない口と鼻。柔和な感じの可もなく不可もない典型的な和顔でありながら、神々しいばかりに美しく、そして恐ろしくもある微笑を浮かべる。剃り残しの青さのない白い剃髪姿の彼は神様そのものだった。
「神様」
幸紘の声に気がついて神様は幸紘を見る。柳線形の目を笑みの形に細めて、軽く腕を開く。その腕に誘われるように幸紘は神様に向かって走り出した。
いけない。
『聲』の警告に幸紘は足を止められる。神様と幸紘の間には黄金の狼が立っていた。
狼は幸紘に背を向けたまま、神様を前に体を低く構えることもなく、鋭い牙をむくこともなく、先端が黒色のふさふさとした尻尾を立てることもない。静かに、ただそこに居た。
触れてはいけない。
狼の『聲』が告げる。それは幸紘か、それとも神様に向けられたものか。強い風が山の木々を大きく揺らした。
「邪魔をするというのか、オオカミよ」
対峙する神様は狼に尋ねた。その顔が不快のためにかすかに歪む。
「お前は、その男が恋しいんだろう? だからその『命』が削られようと、無理をおして八津山の結界からでてきているんだろうに」
狼は答えない。ただじっと神様を見つめる。
「このままでは、その男はお前の事を一切思い出すことなく、人として生き、そして死んでいくことになる。それでお前は本望か? 思い出さない事が幸せなこともあるなどと、建前で誤魔化し続けるつもりか?」
狼はじっと佇んでいる。
「お前『達』は、それでいいのか? 本当にそれでいいと、諦めて生きられるのか?」
『それ』というには不定形の、精の光が忙しなくあたりを飛び回る。それらを制するように、狼は天を仰いで長く長く吠える。狼が鳴いていると前に狒々が言ったそれと同じ声だった。夜の静寂に木霊する山の王の遠吠えは、神様の挑発にざわついた精たちに静粛を求める。忙しなかった光の粒はまた蛍のようにゆったりとあたりに漂った。
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