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1 哀惜の咆哮 ②
桶を用意するように。
朝拝が終わった後、瀬織津媛は本殿の奥からにょいっと目玉のついた触手をのぞかせて幸紘にそう命じる。幸紘は朝拝の祓串を片付けてから眉間に軽く皺をよせて背後に迫る目玉に振り返った。
「一番綺麗な白木の木桶に紙垂付きの縄を巻いて神籬とし、それを持って鏡池に行け」
「俺の朝飯がまだなんですが」
「その後でかまわん。だができるだけ早く。お前の神様が先に出迎えに行くはずだから」
「誰か来るんですか?」
「たぶんな。水脈が騒がしい。季節的に、嫌な予感がする」
「招かれざる、ですか?」
幸紘の顔が曇る。瀬織津媛は目玉のついた触手を左右に振った。
「俺にとっては淵上の外からの眷属なんぞ誰でもそうだ。向こうはなんとも思っていないだろうがな」
「引きこもりですもんね、基本」
「お前には言われたくないんだけどぉ? 多少ましになっただけでコミュ障は相変わらずだろうが。俺の予想が当たってりゃ、やってくるのは『あいつ』なんだ。だとしたら完全水棲種でも地上で溺れやしねえが、自重で肋骨が潰れちまう。だから鏡池から御社殿まで、桶に水入れて、その中に移して連れてこい」
「鯨か鯱かなんかですか? 桶に入ります?」
「十分入る。大きくても一mほどだろう。あと今日の神饌の注文に必ず魚を入れておけ。鮎でも鮭でも鯉でも鰻でも、人間が食えそうなものならなんでもいい。肉食だからな。国産ならなおよし」
「国産鰻? いきなりそんな高いもの注文できるわけないでしょう」
「それを用意してしかるべき客だ。神使だが、奴がお仕え奉る祭神は俺らよりもずっと神位が高い。失礼がないようにな。お前が割を食うことになるぞ、神職」
「はいはい……」
失礼の塊のような瀬織津媛がそう言うのは珍しい。さすがに馴染んでいるとはいえ、自社の主祭神にそれを告げるのは、神職としての正式な修練を経た今の幸紘には憚られたので口にはしなかった。
朝食時に浩三へ神饌の追加を注文する。七時半に社務所から持ち出した木桶に言われたとおりに装飾を施して、それを手に幸紘は神社の側道を通って禁足地へ向かった。眼鏡をしていない幸紘の周りに『それ』がふわふわとまとわりつく。幸紘は軽く手でいなした。
獣害防護柵を開けて中に入る。ちらっと防護柵越しに幸紘が振り返ると、『それ』らはやはり神域に入るのを拒み、幸紘に構って欲しそうに見送った。
「バイバイ」
幸紘が軽く手を振るとふわふわと『それ』らはどこかへ去って行った。
慣れてしまえば良き隣人だ。修練の結果か『聲』の成果か。どちらにしろ『それ』らと幸紘の力関係上、いつの間にかその程度の付き合いにはなっていた。
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