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そこは、ひどいありさまだった。
ヒトらしきものが倒れていた。
床に膝をつき、上体をベッドに突っ伏している。でも、それはヒトじゃなかった。ヒトの形をした皮。皮の後頭部から背中にかけて縦に割れ目がはいり、割れ目から出ようとする肉のかたまり。どろりとした粘膜に包まれた、その肉のかたまりの背中には、包丁が突き立っている。包丁と肉の間から血が流れ出して、半透明の粘膜を真っ赤に染めていた。
「し……翔くん……?」
それは、どうやら翔くんらしい物体だった。下になった皮の肩のところに、セックスしていたときに見たほくろがあったから、そうと理解した。そうとしか、考えられなかった。
恋人の死体を前に、あたしは一歩、二歩とあとじさった。本当なら、悲鳴をあげ、カレシの身体にとりすがるべきところかもしれない。でも、できなかった。あたしはよろめきながら、あとじさり、部屋から廊下へ出た。
そのとき、鼻の粘膜を刺激する匂いをかいだ。
灯油の匂い。
ふりむくと、廊下の向こうに宏子が立っていた。手にトートバッグくらいの大きさの、ポリタンクを持っていた。ふんふんと鼻歌を歌いながら、ポリタンクを傾け、液体を廊下にまいていた。匂いのもとは、その液体だった。宏子は灯油をまいているのだった。彼女の顔には笑みが浮かんでいた。正気の人間とは思えない笑みだった。
宏子が灯油をまき散らしながら、こちらへと歩いてくる。彼女の視線はこっちを向いていたが、あたしに焦点はあっていなかった。狭い廊下で、宏子とすれちがった。彼女はそのまま翔くんの部屋に入っていった。部屋のなかにも少し灯油をまいたところで、ポリタンクが空っぽになったらしかった。宏子は容器を床に放り投げた。それからゆったりしたスカートのポケットに手を入れ、なにかを取り出した。肩の上にかざしたそれの正体がわかった。
ライターだ。
安物の、使い捨てのライターだった。
あたしは悲鳴をあげ、一目散に逃げだした。階段をおり、玄関から外へ。
両脇に住宅が建ちならぶ道路を、転びそうになりながら、十メートル、二十メートルと小走りに走った。
それからようやく立ち止まると、はあはあと息をつきながら、ふり返った。
翔くんの家の二階の窓をやぶって、黒い煙と、赤い炎が噴き出すところだった。
〈了〉
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