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第7章 どんぐり
どこか遠い彼方から、ビルの破壊現場みたいな凄まじい騒音が聞こえてくる。
何事だ、まったく。ここは上品な高級ホテルじゃなかったのか……
「上條先生! いるのは判ってるんですよ。ここを開けてください!」
俺ははっと目を開けた。
どうやらいつの間にかベッドに倒れ込んでいたらしい。だんだん意識がはっきりしてくると、ようやくまわりが目に入ってきた。
間違いなく元のホテルの部屋だ。缶詰にされた時そのままの……
「先生! 上條先生! いいかげんにしてください! 早くここを……!」
どうやら騒音の主は、編集者の安藤らしい。微かに痛む頭を振りながらよろよろと部屋を横切り、外からぶっ叩かれている重いドアをぐいと引き開けた。反動で安藤が部屋の中へ倒れ込む。
「ああ先生! もう、どうしたんですか! 電話入れても全然出ないし、呼べど叫べど返事はないし」
「すまん、ちょっとうたた寝を……」
怒り狂う安藤を宥めて、部屋の中に入れる。
「うたた寝ぇ!? 冗談じゃないですよ、何回チャイム鳴らしてドア叩いたと思ってんですか! だいたい僕が部屋出てから、まだ2時間経ったかどうかってぐらいですよ。先生のお昼寝のために高い部屋取ったんじゃないんですからね」
2時間? 俺の記憶では、かの世界で少なくとも2日は経ってるはずなのだが。SFモノにありがちな、異世界と現世界では流れる時間軸が違うってヤツか。
「そんなんじゃ原稿進んでないんじゃないですか? プロット最後まで行きました? 困るなあ、もう。ちょっと画面見ていいですか?」
そう言うや、安藤はこちらの返事も待たずにさっさと画面をスクロールし始めた。その背中がだんだん前のめりになっていく。
「先生、これ……」
「すまん、今からエンジンかけるから……」
安藤はくるりとこちらを振り返った。
「先生、いつの間にオカルト派になったんですか」
「へ?」
安藤は驚きと戸惑いの入り混じった表情で、忙しく画面を動かした。
「二人の女性が手を下すんじゃなくて、主人公の亡くなった恋人が代わりに片をつける、ですか。しかも自分自身の復讐心からではなく、恋人を罪に堕とさないために、か。なるほどね」
一瞬、呆気に取られたものの、俺は慌てて笑顔を貼り付けた。
「そ、そうなんだ。最初は友里恵とめぐみのどちらかに、って思ってたんだけどさ。読者がそれを期待してるところに、最後の最後でどんでん返しっていうか、ただの復讐話にしないで、純愛っぽいテイストをかませるって感じで……」
まさか桜井を突き落としたのが作者の俺だとは、とても言えない。だが咄嗟に口にしたわりには、我ながら説得力のある筋立てに思えた。
果たして安藤は満足そうに頷いた。
「いいんじゃないですか。今までの先生の話にはなかった方向性ですから。それにあのままだとどっちに殺らせても、結局物足りなさが残りますからねえ。僕としてもそこが不安だったんで、第三者の存在が出てきた方が面白いと思ってましたから」
だったら最初からそう言えよ、という言葉が喉から出そうになるのを、俺はぐっと飲み込んだ。どうも編集者ってのは、後出しジャンケン的な発言が多い気がする。
それにしても、と俺はこっそり首をひねった。
いったい俺は、いつの間にこのプロットを書き上げたのだろうか。まるで向こうの世界での出来事が、こっちのパソコンと同期していたみたいだ。まあ後から自分で打たなくていいぶん、楽と言えば楽……
「先生、結局この男……桜井は死んだんですか?」
「え?」
俺は思わず言葉を失った。そう言えば桜井がどうなったのかを確認しないまま、こちらに帰ってきてしまった。俺は慌てて話を繕った。
「うん、はっきり書かないのも面白いかな、と思ってさ。桜井が死んだかどうかっていうのは、物語としてはそこまで重要じゃないんだよ。『二人の女性の決意と解放、死んだ恋人がすべてを負う想いの深さ』ってのがテーマだからさ」
「重要じゃない? でも人が死んだか死なないかってのは、ものすごく大きな差じゃないですか」
「そりゃ、それが現実の世界ならね。でもこれは物語の世界なんだよ。だからそこにどれだけ重きを置くかは作者の自由というか、裁量の範疇なんじゃないかな」
安藤はじっと考え込んでいたが、やがておもむろに口を開いた。
「先生……桜井、もうちょっと何とかしましょうか」
「何とか? 何とかってどういうことだ?」
「そうですねえ、どうしましょうか」
意味深な安藤の物言いが、どことなく引っ掛かる。
「どうするって言ってもなあ。まああの高さの階段から勢いよく転がり落ちたんだから、普通なら死んでてもおかしくないだろうけど……」
『そのとおりだよ、あんたのせいでな』
突然、頭の中で冷たい声がした。
耳に覚えのある、気位の高そうな尖った声。まさか、まさかそんなはずは……。
目の前の安藤が、俺の目を見てにたりと笑った。
「――すべてを手にしたエリートだったのに、突き落とされた階段の下で転がったきりなんて、彼のプライドが許さないでしょうからねえ。作者の裁量、大いに結構ですよ。きっちり書いていただきましょうか」
ねっとりと恨みの込もった声に、思わず背筋がぞくりと粟立つ。
「で、でもそんなのプロットにない……」
青ざめて口ごもる俺に、安藤は急に愛想よく微笑んだ。だがその目は冷たく光って微塵も笑っていない。この豹変ぶり、まるで……。
「――確かにプロットは大事です。でもね、先生なら判るでしょう? 小説を書いていると、時にキャラクターが作者の手を離れて、勝手に動き出すこともある。それだけキャラが強く立ってる証拠ですよ。それを活かさない手はない」
安藤は、俺が動揺する素振りを見ながら楽しそうに言葉を続けた。
「そもそも椎名みたいに弱っちい奴に出し抜かれたっていうのも、ちょっとねえ、読者は納得しないと思うんですよ。桜井が死んだのなら、そっちの世界で椎名に対して復讐を……」
「そんなことはさせない!」
俺は思わず椅子から立ち上がった。
「椎名卓也は弱っちい奴なんかじゃない。責任感の強い、誠実な男だったんだ。めぐみのことをとても大事に……」
「その大事な存在を置いて自死したくせに?」
「好きでそんな真似する奴がいるか! きっとものすごく心残りだったはずだ。だからこそめぐみの復讐を何とかして止めようと……!」
その時、足元でぱきりと何かが音を立てた。
はっと床の上に目を落とすと、俺の足の下で木の実がひとつ砕けていた。まわりにもいくつか散らばっている。
「どんぐり……?」
なぜそんなものがと思った途端、思い当たることがあった。
椎名に突き飛ばされて後ろの木の幹に当たった時、その振動で上からばらばらと何か固いものが降ってきた覚えがある。それがポケットにでも入って、立ち上がった拍子にこぼれ落ちでもしたのだろうか。
――この木は僕の友達ですから。
椎名の言葉が頭によみがえる。そうか、あの木は……!
「――あれ先生、どうしました? えーと、どこまで話しましたっけ。そうだ、あわやのところで椎名が手を下して、めぐみをかばったというスジでしたっけか。桜井の生死は……まあ終章でちらっと触れる程度ですかね。了解です。じゃあその線で行ってください」
能天気な安藤の声に、俺は我に返った。
目の前の安藤は、にこにこといつもの人の好い笑顔を浮かべていて、ついさっき自分が口走ったことは何も覚えていないようだった。
「頑張ってくださいね、先生。大丈夫、まだ時間は充分ありますから。ああ、そうだ。そろそろタイトルも考えておいてくださいよ」
昼間と同じように晴れやかな笑顔で安藤が部屋を出て行った途端、どっと全身から汗が噴き出す。
「まったく脅かしやがる……マジで肝が冷えたわ。それにしても……」
どんぐりが魔除けになるなんて聞いたこともないが、とにかくこいつのおかげで命拾いした。椎名の存在がなかったら今頃どうなっていたかと思うと、今更ながら寒気が走る。
俺は手を伸ばして床の上に落ちているどんぐりを拾うと、そっと机の上に置いた。パソコンの画面は、まだ開いたままの状態で白く光っている。
タイトルか……。
ぼんやりと考えを巡らせながら、俺はふとあることが頭に浮かんだ。
今の今まで自分が体験した騒ぎの方を小説にするなら、果たしてどんなタイトルになるのだろうか。
俺は机の上のどんぐりに目をやると、キーボードに手を伸ばした。
『もしも世界が小説と繋がっていたら』
画面に浮かんだ文字に、思わず笑みが洩れる。
――ま、それは次の小説のネタにさせてもらうかな。
机の上のどんぐりをそっとポケットにしまうと、俺は再び画面の原稿の続きに戻っていった。
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