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第1章 遭遇
――憂鬱だ。憂鬱極まりない。
俺はノートパソコンの前で、苛々と頭を掻きむしった。
昨日は煌びやかなスタジオで収録に励んでいたかと思うと、一転して今日は原稿との格闘だ。まあこちらが本業なのだから、文句は言えないが。
それにしても筆が進まない。どうにもストーリーが浮かんでこないのだ。朝からもう2時間ばかり、キーを打つ手が止まったまま、同じ場面から一向に先へ進まない。
「なーんか違うんだよなぁ……やっぱオチが決まってないと、どうにも腰が据わらないっつうか……」
小説を書く時に、いわゆるプロットというものが重要なのはよく知られている。これも作家によってずいぶん違うのだが、キャラ設定から時系列、果ては物語に登場しない人間関係やサイドストーリーまで緻密に練り上げる作家もいれば、まるで映画の予告編ばりに、印象的な場面をささっと書くだけの作家もいる。
俺はどちらかというと、話の筋よりキャラクターの作り込みに力を入れる。いわゆるキャラ立ちというやつだ。キャラがしっかり立っていれば、勝手に各々が動き始めて、それに引っ張られるように物語も流れていくからだ。
だが今回の話は、肝心のオチがどうにもぴたっと来ない。多少ミステリーっぽいサスペンス系の物語なのだが、プロットがしっかり定まっていないせいか、原稿を書き始めた今も結末をどうするのか、皆目見えてこないのだ。
「上條先生、コレ誰が犯人なんですか?」
出版社が押さえてくれたホテルの一室で、プロットを読んだ編集者の安藤祐輔が首を傾げた。デビュー以来、二人三脚でやってきた気心知れた相棒ではあるが、こっちが年上のせいか、常にお任せモードなのがもどかしい。
「二人の女性が主人公で、お互いが相手の存在を知らずに、それぞれの動機で一人の男性を殺そうと狙う、っていう設定は面白いと思いますけど、これ男性が死ぬんですよね? 二人のうち、どっちが犯人なんですか?」
俺は返答に困って黙り込んだ。
ミステリーにおいて結末が見えていないということは、それ即ち「犯人が未定」ということに他ならない。それが決められないから、未だ物語の半ばでうろうろ逡巡しているのだ。
「まあ上條先生は、何だかんだ言って最後はちゃんと着地してくれるから、お任せしちゃって大丈夫だと思いますけど。もう前半部分は初稿書き始めてるんですよね?」
俺は唸るように返事をした。そうしろと尻を叩いたのは安藤本人ではないか。
安藤はへらりと気楽な笑顔を浮かべた。
「ならいいです。とりあえず前半のプロットはOKだから、どんどん本編書いちゃってください。プロット後半も頑張って仕上げてくださいね。あ、ここのホテルは1週間押さえてありますから」
安藤は差し入れのプリンを冷蔵庫に放り込むと、晴れやかな笑顔で部屋を出ていく。
待て。ちょっと待ってくれ。大丈夫なんかじゃないんだ。君は担当だろう、この苦境を打開するためのアドバイスをくれたっていいじゃないか……と言いかけて、俺は口をつぐんだ。
今日び、編集者が作家を育てるなんて考えは、もはや夢まぼろしに等しい。呑気な昭和の時代ならいざ知らず、斜陽産業と言われる出版業界にあって、出版社も生き延びるのに必死なのだ。
今や新人賞を取ったばかりの右も左も判らない新人作家ですらろくに面倒も見てもらえず、2作め以降でヒットを飛ばせなければ容赦なく切り捨てられるのが当たり前。ましてこちらは一応10年選手だ。放っといても大丈夫だと思われているのだろう。
「あーあ、どっちに殺らせようかなあ……どっちもアリなんだよなあ……」
物騒な呟きを洩らしながら、特別に運び込んでもらった机の前でひたすら視線を宙に彷徨わせるうちに、だんだんと頭の中が朦朧としてきた。
これだからホテルの部屋は困るのだ。妙に静かときてるし、すぐ後ろには寝心地のいいベッドがどーんと鎮座している。
煮詰まった時は気分転換も立派なカンフル剤だ、という言い訳が頭に浮かぶより早く、俺は真っ白の画面を前に、うとうとと眠りという名の逃避行に入っていた。
目が覚めると、すでに日はだいぶ傾いていた。中途半端に眠ったせいか、まだ何となく頭の中に靄がかかったような気がして気持ちが悪い。
俺は立ち上がると大きく伸びをして、そのまま入口脇のカードキーを抜き取って部屋の外に出た。
ホテルはうろうろ歩き回るにはいい場所だ。スタッフもみんな俺の缶詰には慣れっこで、こっちの顔を見知っているから不審者扱いされることもない。
俺はゆったりしたソファに腰掛けて、広いロビーを行き交う人の姿をぼんやりと眺めた。
大きなスーツケースを傍らに従え、ラフな服装で笑い合う外国人観光客。
見るからに金のありそうなマダムたちの煌びやかな集団。
休日前の夜を楽しもうと、レストランに足を向けるカップル。
どれも自分にはこれっぽっちも縁のない世界だ。
「ありがとう、ミスター・桜井。非常に有意義な1日だったよ」
すぐ後ろで突然、流暢だがゆっくりとした英語で話す声が聞こえた。
振り返ると、仕立てのいいスーツに身を包んだ黒人の男性が、日本人の男性とがっちり握手を交わしている。商談か何かだろうか。恐らく日本人相手に気を遣って、少し緩やかなテンポで話してやっているのだろう。おかげで俺のような日本語オンリーの人間にも、何とか意味ぐらいは聞き取れた。
「こちらこそ、ミスター・ジョンストン。明日は10時にお迎えに上がります。そのまま空港へ……」
対する日本人の男性はそれなりの話しぶりではあるが、さすがにネイティブ同様とまではいかないようだ。
だがその台詞を耳にした途端、俺は弾かれたようにソファから立ち上がった。その勢いに驚いたのか、二人が同時にこちらを見る。
「――何か?」
「あ、いや……失礼しました。ちょっとその、知人と間違えまして」
日本人の男性はちらりとこちらを一瞥するや、何事もなかったように黒人の男性に笑顔を戻した。もう俺のことは視界にも入っていないようだ。
そうだろう、この男ならそのはずだ……いや待て、まさか。そんなはずはない。
やがて二人はもう一度固い握手を交わすと、にこやかに別れた。黒人の男性は奧のエレベーターに向かい、日本人の男性――桜井と呼ばれた男は足早にロビーを横切って出口の方へ歩いて行く。
「ちょっと待ってください!」
俺は思わず声をかけた。男が足を止めて振り返る。さっきまでの愛想のいい笑顔は消え失せ、不機嫌な表情を隠そうともしない。
「あ、あの……失礼ですが、あなた……あなたのお名前はもしかして桜井達人さんと仰いますか?」
「――そうだけど、それが何か? あんた誰? 俺、あんたの顔に見覚えなんかないんだけど」
さっきとは打って変わった、攻撃的で尖った口調はまるで別人だ。だがこっちはそれを気にする余裕もない。
「まさか、そんな……そんなはずは……もしかしてそのスーツ、ラルフローレンのイージーオーダー?」
男はぎょっとして後ずさると、あからさまな舌打ちを洩らした。
「何だよ、おまえ。気持ち悪いな。いい加減にしないと警察呼ぶよ。おまえの妄想に付き合うほど、こっちは暇じゃないんだよ」
桜井は心底軽蔑した目つきで俺を睨みつけると、さっさと歩き去った。
残された俺はロビーの入口に立ち尽くしたまま、思わず苦笑した。
そうだな、桜井達人さんよ。あんたは三十代半ばのエリートビジネスマンで、品のいい美人の奥さんもらってるけど、実のところは強い奴には尻尾振って自分より弱い相手は徹底的に踏みつけにする、ご立派なスーツの中身が腐った男だもんな。
さっきの桜井の固い英語が頭によみがえる。
『こちらこそ、ミスター・ジョンストン。明日は10時にお迎えに上がります。そのまま空港へ……』
聞き間違えるはずもない。それは俺の新作の中に出てくる、やがて殺されるはずの登場人物、桜井達人の台詞そのままだった。
――おまえの妄想、か。その妄想から生まれたのが、あんたなんだがな。
だがその皮肉な呟きが、足早にホテルを出て行く桜井の耳に届くことはなかった。
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