第2章 敵討ち

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第2章 敵討ち

部屋に戻る気にもなれず、俺はさっきのソファに戻って再び身を沈めた。 ただの偶然だ、と頭では判っていた。“桜井達人”なんてありふれた名前、世間には掃いて捨てるほどいる。だがまずまず端正な顔貌に加えて、身長181㎝の外国人にも負けない背の高さ。エリートにありがちな気位の高さと、目下の者を見下す器の小ささは、俺が設定した桜井達人のキャラと見事に一致している。 確かに、外国人のビジネスマンとホテルのロビーで談笑する場面を書いた。相手の名前は「ポール・ジョンストン氏」だったのも間違いない。 だが曖昧に“外国人”としか書かなかったから、実際に登場したのが黒人の男性だったことには驚いた。描写の甘さがこんな形で現れるとは。あとで原稿を黒人に直して……。 ――ちょっと待て、なんでこっちの世界に合わせて原稿を変えなきゃならないんだ。いいか、落ち着いて考えろ。たまたま登場人物によく似た人間が現れ、自分の書いた場面に近い状況に出くわしただけと思えば……。 だがそう考える端から、それを覆す事実が湧き上がってくる。 そうだ、この会合は社運を賭けた商談だった。見栄っ張りの桜井は、相手の来日に合わせて高級ブランドのオーダースーツを作る力の入れようだったはずだ。 しかも物語と一言一句違わぬあの台詞が何よりの証拠だった。 そこまで考えて、俺ははっと顔を上げた。 もしもこの世界が俺の書いた小説だと言うのなら、この商談を陰から見ている人物がいるはずだ。彼の妻、桜井友里恵が。 美しく、有能なビジネスウーマンであった友里恵は、桜井と結婚するや問答無用で家庭に入ることを強制された。結婚前は「君の好きにしていい」と言っていた桜井だが、結婚と同時に平然と言を翻し、彼女の溢れる才能を無残に摘み取ったのだ。 そこまで自分に尽くさせるにもかかわらず、すぐに他の女性の影が漂い始めたことを感じ取った友里恵は、自ら夫の尾行を始める。 そうだ、このロビーも抜かりなく監視しているはずだ。確か隣接するホテルのカフェに……。 俺は慌ててあたりを見回した。 カフェはロビーのすぐ横にある。ガラス張りの向こうから、ちょうど一人の女性が早足で出てくるところだった。すらりとした体型と手入れの行き届いた長い黒髪に見覚え、というか書き覚えがある。恐らく彼女だ。 俺は腹を決めると、ロビーを横切ろうとしていた彼女に近寄り、あくまで自然な様子を装って声をかけた。 「桜井さん! 桜井さんですよね! 僕、鈴木です。お久しぶりです」 彼女は目をぱちくりさせたが、すぐに困ったように微笑んだ。 「あの、どちら様でしょうか」 「え!? 桜井さんじゃない? サクライエミコさん」 さも大袈裟に驚いてみせると、果たして彼女は戸惑いながら首を振った。 「あの、私は“サクライユリエ”です。桜井は同じですけど、エミコじゃないです」 「ありゃ! これは失礼しました。いやあ参ったなあ、お顔だけじゃなくてお名前まで似てるなんて。どうもすみません」 「いえ、そんな……じゃあ、失礼します」 生来の品の良さそのままに、彼女は丁寧に頭を下げてホテルを出て行った。 一人ロビーに残った俺は大きなため息をついた。 もう、認めざるを得ない。ここは、俺が今書いている小説の世界なのだ。どうしてかは判らないが、俺は書きかけの自分の小説の中に入り込んでしまったのだ。SFモノを書いたことのない俺には、この現象を何と呼ぶのか判らない。だが、一つだけはっきりしていることがある。 もしここが俺の小説の世界だとすれば、桜井達人はいずれ殺される。それは明確にプロットの中に存在している事実だった。 問題は、それが誰によって為されるかだ。 そもそもこの小説の主人公は、桜井の妻である友里恵ともう一人、恋人を失った女性、森田めぐみの二人になっていた。 めぐみの恋人、椎名卓也は桜井の部下だ。まだ入社して2年めの椎名は、上司である桜井に執拗なパワハラを受けて心を病んだ挙句、自宅で自らの命を終焉させた。 以前から椎名の悩みを聞いていためぐみは、何としても彼の無念を晴らそうと復讐の念に燃える。 一方、友里恵の動機は夫のモラハラだけではない。それでは動機として弱すぎる。友里恵は結婚してから、一度も実家に帰ることが許されなかった。 経済的には恵まれていたものの早くに父を亡くし、母一人子一人で育ってきた友里恵にとって、母親は強い絆で結ばれた存在だ。その母が自分の結婚を喜んでくれたのも束の間、夫の豹変によってほとんど会えない状態になるとは想像だにしなかった。 それでも最初のうちは遠方に住む母親が、友里恵のいる東京まで会いに来ることもできた。だが母親に病気が見つかってからは、それも不可能になる。 友里恵は何度も夫に懇願したが、桜井はまったく耳を貸そうとしなかった。 やがて母親は亡くなってしまい、友里恵はようやく葬儀のために実家に帰ることを許された。想像以上に瘦せ衰えた母の姿を前に泣き崩れる友里恵に、事情を知らない親族の糾弾が容赦なく降り注ぐ。夫であり、事の元凶でもある桜井は、多忙を理由に葬儀には同行しなかった。 母親を孤独のまま逝かせた後悔は、ただ桜井と離婚するだけではおさまらない。かくして友里恵は秘かに夫の殺害を企てる。 ……とまあ、こんな筋立てなのだが、この二人、友里恵とめぐみは面識がまったくない。ただめぐみが桜井に妻がいることを知っている、という程度だ。 二人の女性がが自らの憎悪の元に、桜井を殺そうと企てる。物語は最終的に敵討ちは果たされるのか、だとしたらどちらがどのようにして本懐を遂げるのか、という視点に絞られる。 しかし作者としては、今のところどっちつかずの状態だ。果たして読者はどちらに肩入れするだろうか。いや、第三者が絡むという可能性もまだ捨て切れない。要するに、まだ全然オチが決めきれてないのだ。 だがしかし、と俺は顔を上げた。 もしもこのまま今の世界にいれば、自ずとこの話のオチが見届けられるのではないか。元は自分の小説とはいえ、今俺の目の前にあるのは、まごうことなき現実の社会だ。この世界でこれから起きることをつぶさに追っていけば、まるで事件現場を取材してきたかのような、筋の通ったリアリティ溢れる物語になるに違いない。 そうとなったら作戦を立てねばならない。 俺は鼻息も荒く立ち上がると、自分の部屋に戻るべく奥のエレベーターホールへ向かった。
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