第3章 張り込み

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第3章 張り込み

翌朝、俺は早くからロビーに張り込んだ。 俺の書いた内容のとおりなら、今朝10時に桜井達人は再びこのホテルに姿を現すはずだ。 だが昨日、彼に(メン)を見られたのはまずかった。ホテルを出た彼を尾行しようものなら、あの攻撃的で粘着気質の彼のことだ、すぐさま気づいて警察に通報するだろう。 何と言っても彼は物語の登場人物なのだ。あまり深く関わると、物語自体に影響を与え兼ねない。 10時前、桜井達人がホテルのロビーに入ってきた。昨日と同様、自信たっぷりのいかにもできるビジネスマン、といった風貌だ。もっともスーツは昨日と同じものかもしれないが。 幸い、彼は俺の存在に気づかないようだった。念のために持ってきたジャケットがこんなところで役に立つとは思わなかった。 ほとんど部屋着に近いような恰好だった昨日と違って、比較的マシなシャツとスラックスの上にジャケットを羽織り、髪をセットして眼鏡をかけるだけで、だいぶ雰囲気が変わるものだ。 ロビーに降りてきたジョンストン氏をにこやかに迎えた桜井は、大事な取引相手を卒なくアテンドして、車寄せに待機していたタクシーに乗り込んだ。行き先は空港だ。追わずとも判る。 俺はまわりを見回した。もしかしたら友里恵がいるのではないかと思ったのだ。 俺の設定では、彼女は夫の不貞の証拠を集めようとしていることになっている。彼の罪を暴き、それを世間に知らしめて社会的に抹殺したところで、満を持して息の根を止める。それが友里恵の作戦であり、最後の願望でもあった。 だが今日はそれらしい姿は見当たらなかった。さすがに毎日尾行するのは難しいのだろう。あるいは今日はGPSか何かで追跡しているのかもしれない。 GPSは大まかな行動や滞在場所を知るには便利だが、誰と会っていたかまでは確認できない。とりあえず昨日はシロであることをその目で確認したから、今日は再び泳がせるつもりなのだろうか。 一方で、厄介なのはめぐみの方だった。 この世界に入ってみて判ったのだが、同じ主人公であるにもかかわらず、友里恵とめぐみではその扱いにずいぶん差があるようなのだ。 友里恵は桜井の妻、つまり直接的な関係を持つ存在だ。だから物語の中でも早い段階から登場するし、その頻度も高い。 それに比べてめぐみは、桜井の部下の恋人という、言わば間接的な関係のキャラだ。だからなかなかめぐみが俺の前に姿を現さないのである。 やはり主人公を二人に設定するなら、もう少し登場比率を揃えないと読者は読みにくいかもしれない、と変なところで俺は反省する破目になった。 昨晩ホテルの部屋で練った作戦は、そのめぐみにフォーカスすることだった。とりあえず桜井と友里恵の(メン)(あらた)めたから、あとはもう一人の主人公たるめぐみの顔を確認しておかないと、事の流れの把握に支障をきたす。 だからいずれ桜井の身辺近くに現れるであろうめぐみの姿を、俺はいち早く捉える必要があるのだ。 めぐみが桜井を張るとすれば、まず会社か自宅ということになる。だが会ったこともない他人の自宅を突き止めるのはかなりハードルが高い。その点、会社の場所なら自分の恋人が勤めていたのだから、知っていてもおかしくはない。 俺は物語の序盤で、卓也から社内イベントの写真を見せられた、という場面を書いている。それは後々めぐみが張り込むことに備えて、めぐみに桜井の顔を認知させるためだ。とりあえずここで無事に伏線を回収できてほっとする。 ひとまず俺は桜井の会社へ向かうことにした。 自分の作った架空の会社が、現実の世界で立派なオフィスを構えている姿を見るのは、どうにも奇妙なものだ。 俺はそのビルの中や近隣をくまなくチェックし、長時間腰を据えて張り込める場所を見つけておいた。気分はまるで犯人を追う刑事そのものだ。 張り込み初日は、特に問題なく過ぎた。空港から帰ってきたと思しき桜井は、感心にもまっすぐ会社に帰ってきた。それから夜の八時過ぎまでオフィスにいたが、特に寄り道することもなく帰宅した。大仕事を終えて、さすがに少し疲れていたのかもしれない。 友里恵はもちろん、めぐみらしき女性も見当たらなかった。 動きがあったのは2日めだった。 ちょうど俺がオフィス向かいのカフェでモーニングセットを食べ終えた時、一人の若い女性がすぐ左の席に座った。だがトレイの上のコーヒーにもほとんど手を付けず、しきりと窓の外を眺めている。 俺はピンと来て、さりげなく彼女の横顔をチェックした。 20代前半、髪はキャラメル色のショートヘア。どちらかと言えば小柄で、年齢のわりには幼い顔立ちだ。かなり俺の設定に違い。 俺はガラスに移った彼女の顔をこっそり盗み見た。彼女が森田めぐみなら、左目の脇、頬骨のすぐ上あたりにほくろが……。 俺は思わず息を呑んだ。 ――ある!  白い肌にぽつりと大粒のビーズのようなほくろが、ガラス越しでもはっきりと見えた。これが森田めぐみだ、間違いない。 清楚で知的な雰囲気の友里恵と違って、めぐみはまだどことなく幼さの残る、なかなか可愛らしい容貌だった。だが見かけのわりには活発で、芯のしっかりした女性というキャラにしたはずだ。学生時代はソフトボール部に属し、副キャプテンとしてインカレにも出場したとか何とか。 だがそのぱっちりとした二重の目は、強い執念を持って向かいのビルの入口に向けられていた。 大事なことは「俺はまだ元の原稿でこの場面を書いてはいない」という点だった。すでに書き終えているのは、恋人である椎名が亡くなって、めぐみがその元凶たる桜井に復讐を誓う場面までだ。 つまり俺の原稿とは関係なく、この世界では事態が進み始めていることに他ならない。だからこの先いったい何が起きるのか、作者の俺にも判らないのだ。 俺は手のひらにじんわりと汗が滲むのを感じながら、もう一度森田めぐみの横顔をこっそりと眺めた。 やがて昼を過ぎる頃、桜井がオフィスから出てきた。 午後から取引先でも回るのかと思いきや、妙にのんびりとした雰囲気だ。 めぐみがさっと立ち上がる。やはり彼を追うつもりなのだろう。 めぐみは急いでトレイを返却口に戻すと、足早に店を出た。同じく店を出た俺は、彼女の後を尾けさせてもらうことにした。できれば俺の顔を見た桜井との距離は空けておいた方が安全だろう。 めぐみは前の獲物を追うことに集中していて、背後までは気が回っていないようだった。 やがて桜井は、会社から少し離れたところにある、小洒落たレストランへ入っていった。超高級というわけではないが、さりとて男が気軽に一人でランチを取るような店ではない。 俺の前を歩くめぐみが困ったように立ち竦み、きょろきょろと辺りを見回している。また見張れる場所を探しているのだろう。幸い、このあたりは飲食店が多いので、俺もめぐみとは別の店へ早々に腰を落ち着けた。 もし桜井が、店で浮気相手と待ち合わせでもしているのだとすれば、1時間半から下手すれば2時間は取られる。こちらもこの辺りで軽く腹に入れておいた方が良さそうだった。
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