第4章 変転

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第4章 変転

時計の針が2時半を過ぎた頃、再び桜井が姿を現した。 案の定、隣に女性を伴っている。友里恵とは正反対の、化粧と服装の派手な安っぽい女だ。まだ俺が書いていない、言わば未知の部分ではあったが、正直驚きはない。まあ、こいつはそういう奴だ。 桜井と女は、裏通りにある怪しげなホテルに入っていった。めぐみが呆れた様子で物陰から眺めているのが遠くに見える。まだ日が高いうちから堂々と楽しむだけ楽しみ、夜になったら何食わぬ顔で家へ帰るつもりなのだろうか。 やれやれとため息をついた瞬間、見覚えのある姿が視界を横切った。 友里恵だ。 恐らくGPSを確認しているうちに、これは怪しいと踏んで出張ってきたのに違いない。事実、彼女はその手にしっかりとスマホを握っていた。 桜井と女が、腕を組んでぴったりと身を寄せ合ってホテルの中に消えていったあとも、友里恵はしばらくスマホの画面をじっと眺めていた。指が動いていないところを見ると、写真ではなく動画を撮ったのだろうか。 そっと移動して横顔を見ると、今にも泣き出しそうに顔を歪めつつも、口元にはなぜか笑みらしきものが浮かべている。憎んでも余りある夫の、予想どおりの浅はかな行動に、心底愛想が尽きたのかもしれない。だがその時だった。 「あっ!」 俺は思わず声が叫んだ。友里恵が突然、ふらりと崩れ落ちたのだ。 慌てて駆け寄ろうとして、一瞬躊躇する。作者が不必要に登場人物に関わるのはまずい。 それに彼女には、昨日顔を見られてもいる。ただでさえ男性が女性に声をかけるのは、たとえやましい気持ちが1㎜もなくとも大きなリスクが伴う時代だ。下手に疑われでもしたら……。 「大丈夫ですか!」 次の瞬間、はっきりとした高い声が響いた。少し離れたところからめぐみが駆け寄ってきていた。めぐみは俺のことなど目に入らない様子で、くずおれた友里恵を気遣うように自らもしゃがみ込んだ。 「だ、だいじょう……」 何とか立ち上がろうとする友里恵の肩を、めぐみがそっと押さえた。 「急に立たない方がいいです。貧血ですか? 気分が悪いとか、視界が歪むとかはないですか? あ、このお茶まだ封切ってないんで、少し飲んだ方がいいかもしれないです」 ――めっちゃいい子じゃん、彼女。 さっきまでの幼い雰囲気とはがらりと変わって、てきぱきとした手際のいい対応を見せるめぐみに、俺は思わず感心して見入った。 そうなのだ。めぐみは、本来はこういう子なのだ。 たとえ見ず知らずでも、困っている人がいたら真っ先に駆け付ける。損得考えずに、自分にできることを精一杯やってのける。 きっと恋人である椎名卓也にも、そうしていたのだろう。だが心配を重ねているうちに最悪の事態が発生し、諸悪の根源である桜井を憎むと同時に、自分自身を強く責めるがあまり、何かが彼女の中で弾けてしまったのかもしれない。 「あの、すみません、そこの人。申し訳ないけど、近くのお店で空いている席を探してもらえませんか?」 突然声を掛けられて、俺は我に返った。少し離れているとはいえ、今彼女たちのいちばん近くにいるのは俺だけだった。あとはみんなさっさと通り過ぎるか、せいぜい座り込んでいる友里恵に、ちらりと一瞥をくれるぐらいだ。 「あ、俺……僕ですか? えーと……」 めぐみはまっすぐ俺を見て頷くと、片手で近くのカフェを指した。 「倒れた人を路上で座らせておくわけにはいかないし……どこか席を確保して休ませてあげないと」 「――いえ、大丈夫です。すみません」 座り込んで息を整えていた友里恵が、弱々しく手をめぐみの腕に沿えた。 「ちょっと立ちくらみがしただけです……ありがとう、もう大丈夫です」 友里恵はめぐみの腕にすがるようにして、ゆっくりと立ち上がった。 俺はできるだけ友里恵の視界に入らないよう、万が一の時に支えるふりをして彼女の後ろに回り込んだ。 「ほんとに大丈夫ですか? 事情を言って、少しの間だけでも休ませてもらった方が……」 だが友里恵は小さく首を振った。 「ありがとうございます。でもこの程度で大袈裟に騒いでも、お店に迷惑をかけるだけですし……少しずつ休みながら帰ります。ご親切にありがとうございます」 友里恵は深々とめぐみに頭を下げた。俺が後ろに立っていることは、頭に入っていないようだ。めぐみも諦めたように、友里恵を支えていた手を外した。 「その方がいいと思います。どうぞお気をつけて」 まだ顔色は蒼白いままだったが、友里恵はもう一度俺たちに頭を下げると、ゆっくり歩き出した。自分の小説のキャラと並んでもう一人のキャラを見送るのは、何とも奇妙な気分のするものだった。 「あの、すみません。ありがとうございました」 やがて友里恵の姿が視界から消えると、めぐみは俺に向かってぺこりと頭を下げた。 「あ、いや。俺……僕は何の手助けもできなくて。でもあなた、すごいですね。ゆり……あの女の人が倒れたらすぐに駆け寄って、テキパキ対応して。もしかして医療関係者の方ですか?」 そんな設定にはしていないのを承知で訊ねてみると、めぐみは照れたように首を振った。 「いえ、全然そんなのじゃありません。でもつい最近、職場で救命講習を受けたんです。そのせいかな」 「救命講習かあ。AEDの使い方とか心肺蘇生法なんかですよね。でも習っててもなかなか咄嗟には動けないものですよ。でもあなたならいざという時、誰かの命を救えるんじゃないかな」 精一杯のねぎらいを口にすると、めぐみは寂しそうに微笑んだ。 「だといいですけど……でも私、大事な人の命を救えませんでした」 息を呑む俺を前に、めぐみはまるで独り言のように呟いた。 「ちょっと前に、彼氏が自死しちゃったんです。職場で上司からひどいパワハラ受けてて……。私何度も、そんなところ辞めちゃいなよって言ったのに、彼は両親に仕送りしたいから、って言って……」 まさか「知ってます」とも言えず、俺は思わず天を見上げた。 俺は何と残酷な設定をしてしまったのだろう。正直言うと椎名卓也は、物語の中でそれほど重要な地位を占めてはいなかった。めぐみが復讐行為に走るためのトリガーとして存在するだけのキャラだったはずだ。 だが実際に彼らが生きるこの世界では、椎名もまたごく普通に人生を生きる、温かい血の通った生身の人間だった。朝起きて食事をし、仕事に行き、夜は家に帰る。休みの日には、大事な恋人と楽しい時間を過ごして……。 ああ、だめだ。めぐみに復讐なんてさせられない。こんな真っ当な子の手を血で汚させるなんて、到底無理だ。 それなら友里恵はいいのか? そんなわけがない。彼女もまた理不尽極まる被害者なのだ。桜井みたいな男は、結婚するまでは本性を隠しておくことが悪魔的に上手い。それを見抜けなかった友里恵を責めるのは、あまりに酷だ。 幸せになるはずだった結婚生活が、一日一日と暗い色で塗りつぶされていくのを彼女はどんな思いで見つめていたのだろう。 いったいこのあと、事態はどう転がっていってしまうのだろうか。 呆然と立ち尽くすうちに、いつの間にかめぐみの姿が消えていたことにも、俺はまったく気づいていなかった。
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