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第5章 襲撃
――さて、どうしたものか。
一人取り残されたホテルの前で、俺は途方に暮れた。
今さらカフェに入る気にもならない。俺はホテルの正面にある公園の中に足を向けた。
と言ってもこんな場末にある公園だ。土のかわりに細かな玉砂利が敷き詰められた中に、朽ちかけたベンチがいくつか設えてあるだけだった。植え込みは何の手入れもされずにぼうぼうと茂り、その中に1本だけ大きな木が場違いのように生えている。
奧のベンチに近づいていくと、その向こうに階段があることに気づいた。どうやらどこかずっと下の方に通じているらしいが、人の姿はまったくない。
どうせしばらく桜井は出てこないはずだからと、俺はベンチに座ってこの後のプロットを考え始めた。
やっぱりだめだ。あの二人、友里恵とめぐみのどちらにも、桜井を殺させるわけにはいかない。だが桜井が片付いてくれないと、物語としてはただの修羅場話で終わってしまう。それでは読者が納得しない。いや、その前に編集の安藤がプロットを却下するだろう。
浮気相手に殺らせるか? ――否、そんな動機はない。まだ自分自身で書いてはいない部分だったが、いざ蓋を開けてみたら、浮気相手はいかにも「ザ・不倫女」みたいなキャラだった。騙されたと怒った挙句の刃傷沙汰に及ぶぐらいなら、さっさと次に乗り換えるようなタイプに、桜井を殺す役は不向きだ。
――こうなったら桜井に自滅してもらうか。
もちろん、主人公の二人には桜井を狙わせる。だがあわや、というところで、桜井が自分の過失により命を落とすのだ。それでは彼女たちの胸の内は晴れまい。だが小説のキャラではなく、実在の人間としてその人となりに触れてしまうと、あの二人にそんな汚れを負わせてしまうのは、どうにも忍びない。
俺はジャケットのポケットからスマホを取り出した。
この世界で事が起きるより前に、今から結末を書くのだ。原稿はクラウドに保存してあるから、どの端末からでもアクセスできる。
だが一口に自滅させると言っても、どうすればいいのか。まさかこんな結末になるとは思っていなかったから、桜井には何の持病も負わせていない。交通事故? ちょっとタイミングが良すぎるか。通り魔……いかん、更にご都合主義だ。
だんだん暗くなってくる公園のベンチで、小さなスマホの画面とにらめっこで小説を書くのは、思いのほかやりにくい。片手で器用にスマホを揺らしながら親指一本で打てるような、今時の若い子たちとは違うのだ。
しかもプロットすらなしで、いきなり原稿を書いているから、尚更進みが悪い。
だが早く書いていかないと、この世界のキャラが勝手に動いていってしまう。そもそもさっきの友里恵が倒れたアクシデントだって、俺はあんな場面を書いていないのだ。
この世界は俺の小説そのものでありながら、作者が触れていない背景や、先が決まっていない部分については、この社会の現実としてどんどん進んでいってしまう。それを防ぐには唯一作者である俺が、現実に先んじてストーリーを書き上げるしかないのだ。
――作者が先か、事実が先か。
本来なら、その勝手に作られる結末を見届けるつもりでいたというのに、それを自ら捻じ曲げてまったく別の話に書き換えねばならないとは、我ながら皮肉な話だった。
ふと気づくと、あたりはだいぶ薄暗くなっていた。そろそろこの距離から入口を見張るのはしんどくなってくる。それでもまめにチェックはしていたから、恐らく桜井を見逃してはいないはずだ。昼間の桜井の緩み切った様子から考えて、女とホテルに入って1時間未満で出てくるとは到底思えない。
残念ながら結末までは到達していなかった。だが役者も揃った今、ここで桜井を見逃しては、このあと何が起きるか判ったものではない。
幸い日も沈んで、向こうからは公園の様子が見通せないはずだ。俺は書くのを中断すると、暗がりを利用して公園の入口近くの茂みに潜んだ。
もはや刑事を通り越えて、単なるストーカーだ。
果たして10分もすると、ホテルの入口に見覚えのある姿が現れた。意外なことに浮気相手の女、一人だ。
――まさかあいつ、中で殺られたりしてないだろうな。
だが女には別段、挙動不審な様子も見られない。来た時以上にきっちりと厚化粧を施し、気怠そうに繁華街の方へ向かって歩いていく。もしかしたらそのスジの女かもしれない。昼間はホテルで客を取り、日が暮れるとどこぞの店の夜蝶となるのだろうか。
心配も束の間、やがて今度は桜井が姿を現した。
こちらもやはりかったるそうなオーラをまき散らし、だらだらと締まりのない足取りで女とは逆の方向に歩いていく。顔が赤いところを見ると酒を飲んだのかもしれない。
いかに厚顔の桜井でも、別の女の化粧や香水の匂いをぷんぷんさせて自宅に戻ることはないだろう。となると、自分はどこかのシティホテルにでも泊まるつもりか……。
俺は慎重に間合いを取って、ゆっくりと桜井の背中を追い始めた。幸い、奴の歩みものったりしている。表通りはすぐそこだ。そこまで出れば、尾行もしやすくなる……。
その瞬間、桜井がぴたりと足を止めた。
「な……ゆ、友里恵……!?」
間の抜けた桜井の声に、はっとあたりを見回した俺は目を疑った。物陰から飛び出してきた友里恵が、桜井の行く手を阻むように立ち塞がっているではないか。その手には、きらりと光るナイフがしっかりと握られている。
完全に読みが外れた。友里恵が行動を起こすのは、夫の浮気を世間に晒してからのはずだったからだ。昼間に夫の不貞の現場を目の当たりにして、彼女の中で何かがぷつんと音を立てて切れてしまったのか……。
「お、おい友里恵……! おまえ、何のつもりだよっ……」
狼狽える桜井とは対照的に、友里恵は唇を固く引き結び、物も言わずに桜井に向かって突進してきた。
「あぶないっ!」
俺は間一髪のところで、斜め後ろから桜井に体当たりした。勢い余って二人して路上に倒れ込む。
突然第三者に割り込まれ、一瞬友里恵が躊躇した隙を縫って、桜井は慌てて立ち上がるや、元来た方向へ逃げ出した。
「待ちなさいっ」
友里恵の鋭い声が裏通りに響く。だがその声をかき消すように、桜井の悲鳴が上がった。
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