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1.怪人ニシキの失恋定義
「どうしたニノマエちゃん、酷く浮かない顔をして! もしかして失恋でもしたのか?」
小ぎれいに片付いた生徒会室、その外にまで響く高い声があまりにも耳障りで、ニノマエは銀縁丸眼鏡の下で細い眉を露骨にひそめる。
「してません」
余計なことは言わないでおこう。ぎりぎりの自制が短く出力されるも、肝心の相手はお構いなしだ。
「まあニノマエちゃん失恋もなにも恋愛とか全然興味なさそうだよな。俺の失言だったすまん!」
なるほど当人としては気を使ったつもりなのだろう。
カッとなって机の上にあったサインペンを彼の顔に叩き付けたがこれは不可抗力として欲しいところだ。
「あーりーまーすー! 失恋もありますしー! 今は彼氏もいますー! バカなこと言ってないで黙って仕事出来ないんですか!?」
「あいたっ!? ぬぬぬ、そりゃすまん、てっきり!」
ニシキより40cm近く小さいニノマエは不愛想で目付きもキツい。性格も見たままの印象を反映したとしか思えないほどキツくて生真面目、絵に描いたように「人は見た目による」典型だった。
「てっきりなんです」
「彼氏居ない歴イコール年齢かと」
盛大にため息を吐いて汚物を見るような目でニシキを睨み付ける。
元々格差が大きいのに相手だけが立っているのでニノマエの視線はほぼ真上だった。
しかしいくら自由な校風とはいえ、生徒会副会長の髪が真っ赤に染められているのはニノマエの理解をだいぶ超えている。
超えてはいるが、怯むわけではない。
「その髪、明日にでもハゲたらいいのに」
彼女がぼそりと吐き出した言葉は重苦しくもとげとげしい。
「生々しく辛辣な呪詛をありがとう。こう見えて頭皮のケアにはけっこう気を使ってるんだけどな!」
「あーはいはい、副会長の頭皮にはまったく関心が無いので手を動かしてください。ていうか生徒会長にいいように使われ過ぎじゃないですか?」
生徒会長のニカイドウはなんだかんだと理由をつけて帰宅済み。ニノマエは書記だが、副会長であり先輩でもあるニシキに頼まれて仕方なく居残りで作業を手伝っていた。
「そう思ったりもまあ、たまーにするが、俺は別に気にしてないので大丈夫だ」
「じゃああとはひとりで出来ますね。私はそこまで大丈夫でもないので」
「すまない、そしてありがとう」
ダンス経験でもあるのかと思うほどキレッキレの動作で着席して書類に向かい始めるニシキの様子に盛大な溜息を吐くとニノマエも再び手を動かす。
悪いひとではないのだけれど、とは思うが、本当に悪いひとではないだけだ。
生徒会副会長。通称は誰が呼んだか“怪人ニシキ”。
真っ赤な髪に筋骨隆々の長身と大きな声に高いテンション。運動部かと思わせて入学から二年間ずっと演劇部の脚本担当だったらしい。
生徒会役員選挙では「副会長に最も相応しいのは俺しかいない! 黙って俺についてこい!!」と自信満々に無根拠な演説をぶち上げて当選した彼だったが、どう「副会長に相応しい」のかについては、今もって誰にもわかっていない。
怪人なんて誰が言い出したのかはしらないが、少なくとも変人の類いなのは間違いない。
ともあれ、手を動かせと言ったものの黙って黙々としなければならないほどの内容でもないので心持ち退屈ではあった。
作業の片手間にニノマエはふと思い付いたことを口に出す。
「そういう副会長はどうなんですか?」
「どう、とは? やっぱり頭皮のケアに興味があるのか。女子だってそれだけきっちり前髪上げてると生え際の不安とかあるよな!」
「ないですしなんだったら副会長の前髪を今から引っこ抜きましょうか」
「ほんとやめてマジやめて、俺はけっこう気にしてるんで。じゃあなんの話よ」
「失恋経験とかまったくなさそうですよね」
一瞬間が空いた。それでも不可解に思うより早く、ニシキが大仰に驚いてみせる。
「ええ!? マジでそう見える?」
「彼女は常時3人くらい居そうですね、三か月ごとに全員入れ替わってそうです」
「ニノマエちゃん俺の印象悪過ぎない?」
「正直悪いですけど過ぎてはないと思います。で、違うんですか?」
手元から視線を上げて目を合わせる。
合わせたつもりだった。
しかしニシキは難しい顔で視線を落としていたので綺麗に入れ違いになっている。
「……」
沈黙が長い。
厳密にはニシキの呻き声だけが生徒会室に地の底からの呪いのように響いている。
じっと待っていても長そうなので自分は手を動かしながらにする。ニシキの手を止めてしまったがこれは自業自得なので大目に見ようと思った。
「ニノマエちゃんはさー」
地獄から響くような呻きが途絶えた。
「失恋っていつだと思う?」
「いつ、ですか」
なんだか哲学的な問いだな、と思いつつオウム返しに聞く。
「そう、ひとはいつ失恋するのだろうか」
「それは、振られたら失恋じゃないんですか」
「告白して断られた、あるいは付き合っていたが別れた、ってこと?」
「そうですね。他には相手が亡くなったとか、アニメキャラとかに恋したときも……それはいつかどこかで無理って気付いた時が失恋なのかな」
いくつか例を挙げるが、ニシキの表情は呻いていた時と変わらず難しいまま。
「俺は違うと思う」
少し間があっての返答。珍しく真面目な顔をしているニシキの様子に少し先が気になった。
「どのようにですか。続きをどうぞ」
コメントを挟まずに促す。
「コクってフラれても、恋人に捨てられても、俺はまだなにも失ってないから」
いや少なくとも後者は恋人を失ってますけど、という突っ込みをぐっと自重する。
「断られた、捨てられた、相手が死んだ、行方不明になった、元から無理な相手だった、他etcetc……」
声と体に溜めが入っていくのがわかる。
「そこに俺が居ねえじゃねえか!」
椅子を蹴って立ち上がって叫ぶ。
びくっと身を竦めてから睨み上げるニノマエが、しかし彼の眼中にはまったく入っていない様子だ。
天井に向けてニシキが吠える。
「振られようが捨てられようが相手が死のうが行方不明になろうが二次元だろうが俺はなにひとつ失っちゃいねえ!!」
ひっくり返った椅子に足をかけて両手を広げる。かかってこいと言わんばかりに。
「一回叶わなかったくらいなんだ! チャンスはそこで終わりじゃねえ! 失恋とはすなわち、己の心が折れたとき! 初めてその傷から生まれるものが失恋だ!!」
その言葉にニノマエはかつての苦い失恋を思い返す。
あのとき相手には付き合ってこそいなかったけど既に意中のひとがいて、知っていたけどだからといって諦めはしなかった。
むしろぶち壊して奪い取ってやろうと憎悪のように本気を燃やして、幾度となく挑みかかった。
諦めたのは、失恋したのは、燃やしていたその気持ちが相手の言葉で鎮火されたからだった。
彼に対する憎悪のような愛情が冷めて、そのとき初めて私は失恋した。負け惜しみかも知れないけど、それまでは断じて失恋なんかしていなかった。
相手はさぞいい迷惑だったに違いないけど、私は失恋していなかった。
だからニシキの言葉に納得するしかなかった。
「我思わず!故に我失恋せず!!」
「とりあえずわかりましたけど、そろそろ座りませんか」
「テンションさげないで欲しいなー」
苦笑いで振り返るニシキを見てふと、今までの生徒会活動がフラッシュバックする。
「あ、生徒会副会長に最も相応しいのは俺しかいない、ってもしかしてそういう」
口に出してしまった。ニシキが下手くそなパントマイムのようにキリキリと奇妙な動きを見せる。
「なんの、こと、かな」
「もちろん副会長がまだ失恋していない話ですが」
今まで生徒会にまったく関わりのなかった先輩が三年生になってからなぜ急に副会長に立候補したのか、ニノマエには心当たりがあった。
いや、なかったが今ピンときた。
体重が減りそうなくらい冷や汗を垂れ流しているその顔を冷めた目で見上げたまま告げる。
「あの選挙、生徒会長は鉄板でしたもんね」
「そ、それがなんの関係って話だよ」
「往生際」
ぴしゃりと言われて、足蹴にしていた椅子を戻してしおしおと枯れるように腰を下ろす。
長身と尊大な態度が相まってやたら大きく見えるニシキが自分より小さく見えたのは、ニノマエには初めてだった。
「もしかして、ばればれだろうか」
頭を抱えて呻くように聞いてくるそんな様子が、彼氏持ちの身ながらちょっと可愛いと思ってしまった。意外な一面というのは、人間関係には大事なのだと思う。
「少なくとも私が見る限り、気付いてるひとはいないと思います。生徒会長は知りませんけど。ふたりの間になにがあったのかもなにかあったのかも知りませんし」
その言葉にほっとしたように空気が緩まる。しかし、ニノマエはいい機会なのでこれまでのツケをまとめて払って貰おうと考えた。振り回されっぱなしでは面白くない。
「ところで近日フルート奏者の友達が近くでコンサートやるんですけど、結構きちんとしたやつでチケット高いんですよね」
その言葉に空気が張り詰める。
ニシキは恐る恐るニノマエへと視線を向けたが、彼女は手元の書類にかかり切りで目を合わせようとしない。
しかしその意図は明らかだった。
「よ、よかったら俺が奢ろうか?」
情けない笑顔。
「彼氏もその子と知り合いで」
「……」
僅かな間。ニノマエがちらりと視線を向ける。
「生徒会副会長に最も相応しいのはー」
「わかった! ペアチケットだな!? 席が無かったときは勘弁してくれよ!?」
「ふーむ。まあその条件で手打ちにしましょう。とはいえ女の子に彼氏以外の男とふたりだけの秘密を作らせたんですから、安いものでしょう?」
悲鳴のような承諾の言葉に、にんまりと浮かべられた笑顔には、怪人なんてあだ名も霞んでしまう言外の迫力があった。
「俺、ニノマエちゃんがこんなに悪女だなんて知らなかったよ……」
「せっかくなのでこれもふたりだけの秘密ですけど、そのフルート奏者が私の失恋相手ですよ」
「そこに彼氏と行くんだ」
「はい」
「女の子、怖いなー!!」
「あ、先輩の恋の行方は応援してますね。心のなかで」
副会長から先輩に関係を詰めて来たことに、不安しか感じないニシキだった。
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